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【横浜出身の天才フリーキッカー】サッカー中村俊輔のすべて!

2024年9月5日にFIFAワールドカップ2026アジア最終予選が開幕しました!
サポーターの期待を背負うサッカー日本代表チームにとって「負けられない戦い」です。
 
大きなプレッシャーがかかる中、日本代表は中国代表、バーレーン代表との2連戦に臨みました。
そして見事2連勝!
ホームで行なわれた中国戦(〇7-0)、アウェイで行なわれたバーレーン戦(〇5-0)ともに大勝。
サッカー日本代表は「史上最強」の呼び声がふさわしい結果を残してくれました。
 
この絶好調を維持して、どうか8大会連続のFIFAワールドカップ出場権を勝ち取ってほしいですね!
 
そして、今こそ知ってほしい。
過去の日本代表チームを牽引してきた選手の功績を。
 
今回は、日本代表に長年エースとして君臨した中村俊輔さんを記事にまとめました。
筆者としては、俊輔さんほど背番号10番が似合う選手はいないと思っています。
「天才」「ファンタジスタ」という言葉も、俊輔さんのためにあるのではないでしょうか?
 
読者のみなさんが同記事を通じて、今以上にサッカーに興味を持っていただけたら幸いです。



 

【プロフィール】今こそ知りたい!中村俊輔とは!?


中村俊輔さんは1978年6月24日に神奈川県横浜市瀬谷区で生まれました。
俊輔さんの出身地といえば横浜市戸塚区出身のイメージが強いですが、戸塚区に引っ越したのは俊輔さんが4歳の時だったようです。

そして引っ越し先の戸塚区で、4歳の時にサッカーをはじめました。
俊輔さんのご兄弟もフリューゲルスの下部組織に所属していたり、甲子園に出場していたりと、スポーツ一家ですね。
ちなみに幼少期は「勉強しない子供だった」と当時を振り返っていました。(笑)
 
その後、紆余曲折(後述)がありながらもサッカーを続けて、1997年に横浜マリノスに加入します。
海外チームを含む6チームで活躍し、計26年間プロサッカー選手として活躍しました。
特に左足から放たれるフリーキックの精度はワールドクラスで、フリーキックの名手として世界的に知られていますね。
 
2022年にサッカー選手を引退した後は、横浜FCのコーチとして活躍中です。
2024年9月現在、将来の目標については明言をしていません。
筆者としては「日本代表・中村俊輔監督」も見たいですが、地域の子どもたちにサッカーを教える「スクールコーチ」も似合うと思います。
今後の俊輔さんの活躍に目が離せないですね!
 
サッカー選手としてだけでなく、子だくさんのパパとしても知られている俊輔さん。
なんと、4男1女の子宝に恵まれています!
2012年にはベスト・ファーザー賞も受賞していて、名実ともにイクメンパパですね。

また、「一緒に戦ってきた人は?」の質問に対して「妻」と答えた俊輔さん。
家族の強い絆が伝わってきますね。
 

【サッカー歴】天才レフティー中村俊輔の現在まで!

【幼少期~小学校時代】人生のピーク!?中村俊輔のサッカー人生の礎!


中村俊輔さんは、4歳の時に横浜深園SCでサッカーを始めました。
若林可夫さんにサッカーを教わりました。

「ミスは許すけどサボりは許さない」といった指導方針で、それが俊輔さんのプレーの礎になっているとか。
俊輔さんのクリエイティブなプレースタイルと、ファンタジスタに似つかわしくない泥臭さは、この時の教えが由来なんでしょうね。

ちなみに、俊輔さんは幼稚園時代、小学校時代を振り返り「うまかった。すごかった」と語っています。(笑)
 

【中学校時代】人生初の挫折…。天才レフティー中村俊輔の苦悩。


中学校時代は日産FCジュニアユース/横浜マリノスジュニアユースに所属しました。
ここで俊輔さんは、初めての挫折を味わったようです。

中学1年生の頃から背番号10番を付けて上級生の試合に出場していましたが、中学3年生の時にはベンチ外も経験しました。
横浜マリノスユースに昇格できなかったのは有名な話。
中学生という多感な時期だった事もあり、「怒鳴られていたら辞めていた」と思うほどに追い込まれていたようです。

その当時の指導者は俊輔さんが「褒めるのがすごい上手だった」と語る樋口靖洋コーチと野地芳生コーチ。
俊輔さん自身も「(褒め方を)自分も今身に付けたいなと思います」と感じたようです。
挫折も含め、すべての経験が無駄ではないと思わせてくれますね!
 

【高校時代】天才爆発!日本が中村俊輔を知る!


高校時代は桐光学園高等学校に進学しました。
この時期に「身長がグンと伸びた」と語り、高校入学時は160cmだった身長が175cmを越えたそうです。
毎日のトレーニングに加え、自主トレも欠かさずに行ないました。

そして第75回全国高校サッカー選手権大会では大会No.1の指令塔として注目され、準優勝に輝きます。
高校卒業時にはJリーグ5~6チームから誘いがあったそうで、中学時代の挫折を昇華させられましたね!

ちなみに俊輔さんは桐光学園高校ではなく、帝京高校にも進学する可能性があったとか。
帝京高校のセレクションは「雨が降って行かなかった」と語っています。
たらればですが、帝京高校に進学していたら運命は変わっていたのかも!?
 

【横浜マリノス時代】プロの舞台へ!そしてJリーグMVPに輝く中村俊輔!


1997年、横浜マリノス(1999年以降、横浜Fマリノス)でプロキャリアをスタートさせました。
初年度から全34試合のうち27試合に出場するなど、プロの世界でも輝きを放ちJリーグ優秀新人賞を受賞します。

1999年からは、俊輔さんの代名詞でもある「背番号10番」を背負い、チームの顔になりました。
この当時の横浜Fマリノスには、川口能活さんなど日本代表選手が何人もいて「毎日の練習がピリピリとしていた」と振り返るほどの雰囲気。
その中でエースナンバーを任されるのは特別な意味を持ちますよね。

翌年2000年には、Jリーグ最優秀選手賞を受賞しました。
22歳での受賞は歴代最年少記録です。
大卒Jリーガーが増加した昨今、俊輔さんの最年少記録は今後も破られないと筆者は思います。
 

【レッジーナ】ついに海外進出!サンドニの悲劇をバネに飛躍する中村俊輔!


2002年には、セリエA(イタリア)のレッジーナに移籍しました。

初の海外挑戦を決めた理由について、俊輔さんは「サンドニの悲劇(当時の世界王者フランス代表に日本代表が0-5で大敗した試合)」がきっかけになったと言います。
対戦相手のフランス代表の衝撃はもちろんですが、俊輔さんとしては「(中田)ヒデさんに置いていかれる」と焦りを覚えたとか。
当時、中田英寿さんがセリエAで活躍していたこともチーム選びに影響があったのかもしれませんね。

加入前から「日本のバッジョ」と評され、ここでも背番号10番を付けてプレーしました。
初年度から7得点を挙げるなど活躍し、降格が予想されていたチームのセリエA残留に大きく貢献。

ただ、やはり異文化への適応は苦労があったようです。
サッカー以外の場面でも、チームメイトを食事に誘うなど「海外で生き抜く術」を考え続けたと語っています。
イタリアの文化として21時頃から夕食が始まるそうで、俊輔さんは「ガマンだぞ」と思いながら話を聞いていたとか。
 

【セルティック時代】栄光の日々!世界が中村俊輔を知る!


2005年には、スコティッシュ・プレミアシップ(スコットランド)のセルティックに移籍しました。
俊輔さんの栄光時代の一つが、このセルティックで過ごした時間だったのではないかと筆者は思います。

チームとしてはリーグ3連覇、国内カップ戦などのタイトルを勝ち取りました。
俊輔さん個人としても2006‐2007年シーズンにスコットランドPFA年間最優秀選手賞を受賞しています。

UEFAチャンピオンズリーグにも出場し、日本人初となるベスト16入りも経験しました。
そしてマンチェスターユナイテッド戦では「伝説のフリーキック」を決めています。
このフリーキックはセルティックの「20年間の最優秀ゴール賞」にも選ばれるほど。
「NAKAMURA」の名を世界中が知るきっかけになりましたね。
俊輔さん自身も「今もあのフリーキックで飯食ってるようなもの」と語っています。(笑)
 

【エスパニョール時代】スペインでの濃厚な日々…。もがく中村俊輔!


2009年には、リーガエスパニョーラ(スペイン)のエスパニョールに移籍しました。
俊輔さんは「ずっとスペインに憧れがあった」と語っていました。

数々の栄光を積み重ね、満を持してのスペイン挑戦となりましたが、結果は上手くは行きませんでした。
約半年間でスペイン挑戦は幕を閉じます。

ただ、俊輔さんは「半年しかいられなかったけど、一番濃かった。得るものもあった」と振り返りました。
半年間で13試合に出場して、無得点に終わっています。
結果的に、俊輔さんが所属した最後の海外チームになりました。
 

【横浜Fマリノス時代】日本復帰!再びJリーグMVPに輝く中村俊輔!


2010年には、横浜Fマリノスに復帰しました。
Jリーグ復帰後も海外経験を還元してくれるような、見事なキャリアを積み重ねます。

2011年からはキャプテンに就任し、6シーズン連続でキャプテンを務めました。
2013年にはJリーグ優勝こそ逃してしまいましたが、2度目のJリーグ最優秀選手賞を受賞します。

「俊輔といえばマリノス!」と思われる読者の方も多いかと思います。
俊輔さん自身も「マリノスで(現役が)終わるまでやりたかった」と思っていたようです。
しかし2016年シーズンを最後に、マリノスから移籍することを決断します。
継続することも美徳、断ち切ることも勇気。
俊輔さんの強い意思が感じられますね。
 

【ジュビロ磐田時代】魔法の左足!中村俊輔が偉大な記録を残す!


2017年には、ジュビロ磐田に移籍しました。

ジュビロ磐田へ移籍を決めた理由として、共にプレーした経験がある名波浩さんの存在が大きかったようです。
「一緒にプレーしていた人が監督としてどういう仕事をしているか興味があった」と話しています。
もしかしたら、この頃から俊輔さん自身も引退後のキャリアを考えていたのかもしれませんね。

ジュビロ磐田でも背番号10番を付けて、チームの中心選手として活躍をしました。

フリーキックの名手として知られる俊輔さんですが、最後にフリーキックを決めたのは2017年シーズンです。
直接フリーキックで決めたゴール数はJ1通算24ゴールでダントツ1位。
2位の遠藤保仁さんがJ1通算17ゴールですので、7ゴールも差をつけています。
遠藤保仁さんのフリーキックも世界レベルといって差し支えないと思うので、俊輔さんのフリーキックの精度が際立ちますね。
 

【横浜FC時代】そして引退へ…。ありがとう中村俊輔!


2019年には、横浜FCに移籍しました。

三浦カズ選手の存在を横浜FCへ移籍を決めた理由の一つとして挙げています。
移籍先を選ぶポイントとして「何か得られるものはないか」と思っていたようです。
そしてカズ選手からは「得られるものだらけだった」とも語っています。
「あとガウン着てるところを見たかった」と冗談交じりに話していましたが。(笑)

2022年に引退するまで、すべての人を魅了する選手生活を送ってくれました。
ありがとう、俊輔!

 

【日本代表】史上最も10番が似合う!中村俊輔の日本代表への想いが熱すぎる!


最後に、日本代表選手としての活躍も紹介します。

俊輔さんは21歳だった2000年2月13日に日本代表デビューを果たします。
その後、2010年7月1日に代表引退を表明しました。
筆者としては「代表に入ってたの10年間だけ?」というのが率直な気持ちです。
もちろんすごいことなんですけど。
というのも、俊輔さんが代表チームで活躍していたイメージが強すぎるので、もっと長くいたように錯覚をしました。

俊輔さんは「代表選手としての活動が最優先だった」と言い、「代表チームで活躍するために、逆算しながら行動していた」と語ります。

考え方はそれぞれですが、今は所属元のクラブチームでの活動を優先する選手も多いですよね。
筆者も代表選手が発表される際に「(格下チームが相手なら)〇〇選手は呼ばないで、クラブでの活動に専念させてあげて」と思う事もあります。

俊輔さんのように、日本代表に熱い想いを注いでくれる選手の存在は、日本人としてありがたい限りです。

俊輔さんといえば、98試合24得点という決定力や、2002年FIFAワールドカップのサプライズ落選が有名かと思います。

輝かしいキャリアの中でも筆者が感銘を受けた出来事は、2008年3月28日。
FIFAワールドカップ2010アジア最終予選、相手はバーレーンでした。
この試合、俊輔さんは直接フリーキックで決勝点を決めています。
試合中に唇から出血していた事について俊輔さんは、「力が入りすぎたのかもしれない」と振り返りました。

遊び心あふれるテクニックや、見るものを黙らせるフリーキックが印象的ですが、気持ちの強さこそが俊輔さんの最大の魅力だと思います。
その根底には、「仲間のため、日本のため」といった優しさが潜んでいるように筆者は思います。
 

【まとめ】夢ある限り道は開ける!


いかがだったでしょうか?

これまでのキャリアを振り返ると、俊輔さんは常に向上心を持って決断している事がわかります。
「夢ある限り道は開ける」この言葉は俊輔さんの座右の銘です。
この言葉どおりのキャリアなのではないでしょうか?
これからも俊輔さんの決断を尊敬し、俊輔さんの人生を応援したいと思います。
 
最後までお読みいただきありがとうございました。


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