深海魚な自分と飛び魚のような自分
自分でいる、本当の声って何だろう。
「他者」との関わりで私は本当の「自分」でいられていない、とよく思った。
「自分」だけでいる時のような自分で少しでも存在していたい、と。
「自分」だけでいる時の私は結構深く潜っていて、まるで深海魚。
その反面「他者」といる時の私は飛び魚のように水面によく上がっていた。(家族は例外かもしれない)
振り幅が大きいからよく疲れていたな。
深海魚の時の私は、ものすごく静かな場所にいて太陽さえ届かないことがある。
だから深海魚の時の私だと「他者」である相手がつまらないのではないか、と思っていた。
…書いてたら
ちょっと待って!それって自分に失礼すぎる!
とジワジワと改めて感じるものがある。
ついでに過去のモヤッとしたものも浮き上がって来た気がする。
本当の「自分」でいて傷ついたガラスのような繊細なハートが。チクチクと。
もちろん飛び魚の時のような「自分」も私。
だから私の中の飛び魚も否定しない。
でも、これからはもっと、飛び魚よりも深海魚な「自分」で「他者」と関わっていきたい。
たぶんnoteで書いてるこの感じが深海魚な「自分」に近いかもしれない。
だから私はとーっても書きやすいです。(読みやすいかは別。笑)