なぜ教育とDXをテーマにしたのか|学校教育シンポジウム 「学校未来予想図~子供たちの教育はこう変わる~」を開催するにあたって
いよいよ明日は公益社団法人茅ヶ崎青年会議所の5月第一例会として、学校教育シンポジウム「学校未来予想図~子供たちの教育はこう変わる~」の本番当日です。定員200名の事前予約制でしたが、スピーカーの知名度か、社会の関心時にハマったのか、おかげさまをもちまして満員御礼を持って本番を迎えることができます。
昨年来より、ニューノーマルな社会の中で、子供の教育環境は我が国の中だけでも地域格差が生じました。果敢にオンライン教育を推進する地域もあれば、手探りをしながら見よう見まねでチャレンジを行う地域、他方で全くの空白を生じさせてしまった地域もありました。
これは、ある意味では仕方ありません。災害大国日本とはいえども、人と人が接することを極限まで制限される事態をあらかじめ予想し得た人がどれだけいたかといえば、普通はパンデミックを想定する人は稀です。だからこそ、この急激な生活様式の変化はデジタル化の加速を生み出さざるを得ないほどの影響を生み出しました。
通常、制度を変えたり運用に手を加えることは、行政は極端に嫌がります。それは行政運営の安定性を損なうからです。教育行政においても同様です。さまざまな配慮が必要となり、忖度も行われます。ですが、今回のパンデミックはそんな忖度をしている時間的ゆとりを取っ払いました。
多様性の時代。日本は自らは変われなかったのではないか。
SDGs(持続可能な開発目標)は、誰一人取り残さない社会の実現を理念に掲げてスタートしました。私は、その社会は誰もが活躍できる社会と言い換えることができると考えています。
他方で、我が国には世間体という言葉があるように、他者の目を非常に気にする空気が漂っています。忖度という言葉もまた、言葉に表されていない声を読み取る日本特有の文化であって、多様性を推進する声がある傍らで、アンコンシャスバイアスが様々な場面に広がっていて、到底そんな状況にならないだろ、という状況でした。
そんな中で、人との接触そのものがネガティブになった結果、「空気」で考えるよりも、クールな頭で結論を出していく流れが自ずと加速し、それぞれが自身の考えを持ち、発する土壌が醸成されてきたわけです。
他者との違いを包摂できる寛容性こそが本質。
ただ、それぞれが自分の考えを述べたり、その行動を起こすことがまかり通ることが多様性かというと片手落ちです。個人主義の集まりは、1馬力の足し算にしかならないからです。スポーツに例えればわかるように、1馬力が集まって掛け算を三倍・四倍の成果を生み出せるようになるためには、お互いの状況に配慮しながら時機に応じて相手を生かすようなパスを送ったり、フォーメーションを変えるようなそんな相互理解や、相手との違いを認めるための寛容性が必要です。
今回のシンポジウムは、この茅ヶ崎で挑戦する機運を高めるような、失敗への寛容性を相互承認し、どのような未来を一緒に創るのかのリーダーシップを考えることがポイント。
私たち青年会議所メンバーは、教育のプロではありません。教育行政に「こうあるべきだ」と訴え出るほどの素養もありません。
ただ、そんな私たちがこの事業を企画する最大の趣旨は、
ニューノーマルに乗じてどんなまちをつくろうとするのか
を今こそ考えて、このまちで子供を育てたくなるまちづくりを目指すことにあります。
GIGAスクール構想についての解説もあれば、学校教育の改革の話しなど、専門的なお話もお聞きできると思いますし、私のような素人がパネルディスカッションに登壇させていただくことで、専門家と一般の方々との繋ぎ役になれるかもしれません。
大切なのは、このまちの未来の中心を担う私たちの子供のこれからを考えた時に、教育のような大変大きなテーマでまちづくり、社会づくりを進めるのは今この社会を動かす大人の責務であって、しかもこのタイミングしかないのだということです。
この事業を終えた時に、是非改めて意見交換をさせていただきたいと思っていますし、そのためにお声掛けいただけると嬉しいです。
明日はどうかよろしくお願いいたします。
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