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日本、日本人は世界から見た場合、好意的に思われている国なのでしょうか?敵対的に思われている?何も言えない国と思われているのでしょうか?

立場次第です。

ポーランドネットラジオという、かつて国営放送の番組を担当していた人が独立してボランティアでやっているネットラジオがあるのですが、ニュースヘッドラインのコーナーを聞いていると、比較的頻繁に日本のニュースが流れます。知り合いのポーランド人に聞いてみると、俺たちは日本が好きだからね。テレビ放送でも日本の話題はよく流れるし、スーパーで椎茸も「シータケ🍄」という名で売ってるよ。これ日本語だろ? と言います。そのとき説明してくれた内容をまとめると、次のようになります:

18世紀に消滅したポーランドは、100年に渡る独立運動と民衆蜂起にもかかわらず、ドイツやロシアから強い支配を受け続けていました。

1919年、1世紀の時を経て、ポーランドが念願の独立を果たした時、シベリアには政治犯として捕らえられたり、戦乱を逃れて東へ向かった十数万人のポーランド人がいました。飢餓と疫病により多くの孤児が生じており、生活は限界に近づいていました。

同年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちが、シベリア鉄道で孤児たちをポーランドに送る救援計画を立てます。しかし翌年1920年、ポーランドとソビエトが開戦し、シベリア鉄道の利用が不可能となります。

多くのヨーロッパ諸国が彼らを見放す中、態度が違ったのは、日本外務省でした。請願に訪れたウラジオストクのポーランド人たちの話を聞き入れ、17日後、日本赤十字社がシベリア孤児救済を行うことが決定されます。

決定から2週間後、56名の孤児が東京に到着し、1922年夏までに、計765名の孤児が日本で治療・休養の後、ポーランドへ送られました。

健康状態が危機的な子供もいて、困難な仕事でした、腸チフスの子供を懸命に看護した看護婦が殉職しています。

民間の関心も引き、無料の歯科治療や慰問や寄付の申し出が絶えなかったといいます。

横浜港や神戸港では、多くの子供が日本を離れることを泣いて悲しみました。

彼らは帰国してからも、日本での思い出、日本に到着すると衣類は熱湯で消毒され、浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって大喜びしたこと、帰国の際の船内で、日本人船長が毎晩、巡回して毛布を首まで掛けてくれたことなど、ずっと忘れずにいました。

こうしてポーランドに帰った子供たちの一人、イエジ・ストシャウコフスキは、17歳のときに極東青年会を結成。640名の会員と日本との親善活動を行いました。

1939年、ポーランドはナチス・ドイツの侵攻を受けます。イエジは、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定。運動には孤児など1万数千名のポーランド人が参加しました。

しかしある日、レジスタンスの隠れ家であった孤児院が感づかれ、ドイツ兵たちが強制捜査を始めてしまいます。

知らせを受けて駆けつけた日本大使館の職員は、孤児院は日本大使館のものだと言い張り、ドイツ兵を追い返そうとします。なかなかドイツ兵が納得しないので、

「君たち、日本の歌を歌って聞かせてやってくれ」

と言うと、孤児たちは親善活動で覚えた歌を合唱。同盟国の施設を勝手に荒らすわけにもいかず、ドイツ兵たちは仕方なく去っていきました。

第二次世界大戦で、全ポーランド人の20%近くの人々が命を落としました。その中でも、日本人はポーランド人を守ろうとしたのです。

日本人がポーランド人に親切にしたのは、日露戦争や、ドイツとの駆け引きの結果の産物にすぎないかもしれません。それはポーランド人もよく承知しています。しかし、そんな歴史のいたずらの中で、ポーランド人をもっとも真剣に思う立場にあったのは日本人だったという事実には変わりありません。

感謝状があります。

日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。

シベリア孤児救出から75年後、日本で阪神大震災が起きました。

震災の年、その翌年と、被災児童たち50人がポーランドに招かれました。

大震災で傷ついた子どもたちの心を癒すことを目的に、ポーランド各地の自治体の協力で、交流やホームステイが行なわれました。反響は大きく、企業や資産家、芸術家をはじめ個人からも寄付や協力の申し出が相次いだそうです。

被災児たちは4人の元シベリア孤児と対面しています。元シベリア孤児を代表して挨拶したのは、兄弟で救出された男性でした。

私と弟の人生は、75年前に日本の皆さんに助けられて授かったものです。いつか恩返しがしたいとずっと考えてきました。皆さんの身に起こった不幸を思うと、慰める言葉も見つかりませんが、私たちは日本人から受けた親切を、ずっと宝物のように思って生きてきました。弟も同じ気持ちでしたが、その弟はつい2日前に亡くなりました。彼もきっとここで、皆さんに自分の体験をお話ししたかったろうと思います。

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つぁいにゃお
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