自画像のための習作 3
3
ああこんなことであればもう少し片付けておいてもよかった、と思わないでもない。玄関口に転がった酒の空き瓶を蹴ってとりあえずの通路を作る。瓶がカランゴロ、と転がっていき、煙草臭い埃がぶわりと舞い上がって私は大きなくしゃみをする、彼女は苦笑いを浮かべながらも臆する様子はないようだった。真っ暗な廊下を歩いて行きながら、先生、わたしご飯作って掃除しましょうか? とそんなことまで言う。まさか、お願いするわけにはいかないわよ……。いいんです、わたし、先生にひとつやってもらいたいことがあるんです。だから、これぐらいはしなくちゃいけないんです。先生が了承してくれるかは、わかりませんけど……。
「やってもらいたいこと?」リビングの床に水筒を置く。真正面、そして左右にある窓は不用心にも閉められずに大きく開け放されていて、夜の岩を打つ波の音、そして目が痛くなるほどの闇が感覚を絶え間なく刺激する。透けた花柄のカーテンは風を含み、膨れ上がり、また緩やかに萎んでいく。全ては動きに満ちている。
「大胆な頼みごとですから、きっちり家事をしますから」
「だから、内容はなんなのよ」私は軽く笑い、電気の場所を探しながら彼女を小突く。こんな振る舞いができるようになるなんて、どうしてしまったのだろう。私は酔っているのだろうか。気分がいいんだろうか。いつもは作業机にあるパソコンの明かりのみで地下室に篭っているから、あまりにも電灯の光が眩しくて目を細める。
すると、背後から、
「わたしを、描写してください、デッサンしてほしいんです」という申し訳なさそうなか弱い声が飛んできた。
息を飲んで振り返る……暗闇を背景に突っ立っている彼女の瞳の中に巣食う虚無。小宇宙の負の棘。その輪郭の透き通るようなぶれた流れ。言われなくても、その、歪みを、書くつもりだった、言われなくても、今回の連載は、彼女に会った瞬間から、彼女を、彼女のひずみを、その詳細を、書くつもりだった。こっそりと。彼女にはばれないように。それは、なぜ? それは、なぜ? さっき、彼女が結婚式のひとびとを轢き殺しそうになった時、その決意はより一層、深みを増していった。私が、血のじくじく滲むような、痛みを伴った離婚をしなければならなかったのは、なぜ。
「難しいお願いね」心臓は激しい動悸でおさまらない。
「だって今から洗濯機を回して、掃除機もかけて、ご飯を作って食べて、私たちにどれだけの時間が残されているのかしら」どうして書くつもりだったと真正面から言えないのだろう、どうしてこんなにも出会って一瞬にして屈折した思いが。
「先生のスケジュールは一ヶ月先まで把握してます。今のところ、先生には今回の連載しか仕事はありませんし、期限はまだ先です。そして先生の筆は速いことで有名です」と彼女は淡々と言った。先ほどの打ち合わせを見ても仕事はあまりできないはずなのに。それから彼女は歯を出して可愛らしく笑いながら、
「それに今日は、金曜日ですからね。騒げますから、今日は」と言った。
「……そう」と私は短く答えて、もう見ていられなくなって、なぜかリビングに転がっている洗剤を拾いあげる。
私は彼女を書くことで、いや、彼女を利用してあの時の自分の醜さを暴いて、そうして、もう一度、明るい場所で裁かれたいのかもしれなかった。
長い間使われていなかったキッチンで、彼女は実に器用に料理をした。生ハムで野菜を挟んだのや、ボローニャ・パスタがところ狭しとテーブルに並べられ、分厚い埃の被ったキャンドルに明かりが灯された。グラスはぴかぴかに光を反射するほど彼女によって磨き上げられている。断崖絶壁の間近、深い緑に覆われた丘の上に崩れ落ちそうになって建てられたあばら家での奇妙な晩餐会は、私に何年も訪れなかった心地の良い酔いをもたらした。常に激しい波の音が忍び寄って、全てをぶち壊そうとしてくるのに……お酒はもちろん飲んではいたけれど、それだけではなくて、――いつもウイスキーしか飲まないのに、興味本位で購入したワインセラーに眠っていたまろやかな赤ワインなど開けて――私は楽しかったのだ。すべての世間話など、意味がなくくだらないのが相場なのに、それを喜べる心性が私にまだ残っていて、枯れていないということを確認すると、まだ何かと繋がっていられるような気分がした。
「先生、とても笑われる方なんですね」
「あなたは、私のことを鬼婆とでも思っていたのかしら」
「いえ……イメージがなかっただけなんです。こんなにおしゃべりが好きな方だとは思っていなくて」
今日はあなたがいるからそうなるだけなのだ、とは言えなかった。
「酔っているからかもしれないわね」、とそれを隠して、
「洗濯も掃除もやってくれたし、今なら気分よくあなたを書けるかもしれないわ」、と言った。
これは本当だった。
「いいんですか」彼女は箸を止めて、私を見た。
「もう遅い時間だけど。疲れたらそのソファで眠ってもいいから」悲しくもこの一日で、強烈に、彼女に興味が湧いてしまったのだった……
光栄です、と彼女は夢見心地で、惚けたような顔をした。私はそれを見て、自分の本当の目的の浅ましさが浮き彫りになってくるように思って、ゆるく頭を振った。書きたいけれど、それでも、書いたら何かが崩壊してしまいそうな気もした、この朗らかな楽しさは、ひとつ残らず。散り散りになってゆく。それはわかっている、だから、グラスに残ったワインを一気に飲んだ。
地下室への階段は昔のホラー映画のようにわかりやすく軋む。
「こけないでね、気をつけて……」懐中電灯を持ってゆっくり階段を降りていく。すると黴臭い匂いの奥に分厚い木の扉が現れる、
「作家の部屋だ! 先生、どんな感じで書くんですか」彼女は明らかにはしゃいでいた、
「それは入ってからのお楽しみよ」私は……
窓のない、物置のような小さな部屋の手前にはパソコンが乱雑に乗っかっている木の机があって、その奥にはくの字になった大きな机――こちらも木だ――があって、開きっぱなしの本が這うようになって何冊も積み上がっている、あと描写用のノートも、私はそれを地面に払い落とし、パソコンの電源をつけ、舐めるような目つきでそこいらを見渡している彼女に、
「どうぞ」と言った、悪い酔いが徐々に回ってくるのがわかった……少し、飲みすぎてしまった。
彼女はその机の上で、沿うように寝転がる。紺のワンピースが上がって肉のない白い足が露わになる。
「……最も、個人的なことを私に教えてちょうだい」
倉木陸。2016年、18時15分
カーソルの点滅をしばらく見つめていると、小さな声で、彼女が話し始める。それじゃあ、彼とわたしのことを話します。きっと、それが、一番、わたしにとって個人的なことだと思いますから……彼との付き合いは12歳の時から数えて、四年に渡ります……
「わたしは、7という番号で呼ばれていました」私は即座に振り返ってその濡れたような瞳を見つめる……いけない、これは。聞きたくない。だけど、彼女は話し続ける。
「だから、彼は、わたしを、あるいは自分の好みに合わせた新たな女を、作り上げる気持ちでわたしとか関わっていたのかもしれません。まるで客体的な様子で、わたしにあるのかもしれない核心にまるで触れようともしないで、乱暴にも扱わずに、空気を撫でるように、物みたいにして、わたしはその役割をうまくやり通せたから、7という番号がふられたのかもしれません。成功した女として、」
その感傷的な内容に嫌気が指したというのは嘘になる。
「彼はホモセクシャルでした……だけど、そんなことは初めからわたしにもわかっていました」
「わたしの性は最初っから無効化されていたのです、だから、わたしが彼との間に何かを生み出せたとしたなら、その〈物らしさ〉という点においてなのです」
「彼が去ったあと、わたしは子供ながらに個人的な旅に出ました。自分の〈物らしさ〉がどこまで通用するものなのかを探求するために」
「それしかわたしと彼をつなぐものはありませんでした」
「だから、賭けたのです」……
壁の奥から波が岸壁を打ち付ける音が響く……
「そして、十七歳のとき、ある画家のモデルをすることになりました」
壁の奥から波が岸壁を打ち付ける音が響く……
「その画家とはわたしの父です」
転載禁止
©Makino Kuzuha
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?