Candy Says
あるひとりの女と男が、手をつないでファミリーレストランの前のベンチに座っている。八時、それはこの街では、夜の喧騒に満ちた時間だ。飲み屋の毒々しいネオン、ガールズバーのキャッチの、生き急いだ甘い声。だが、それでもふたりのうちに流れる時間は母親が赤子の指を撫でるように、または、柔らかいバスタオルで思い切り耳を塞いだ時のように、誰もいない海のように……とても静かだ。帽子を被ったそれなりに年老いた男、といっても三十の後半だろうか、彼は携帯を持って、片手で何かを入力している、女はとても若い。少女が背伸びをしている年だ、なんだってまだ爪の色が桃色なのだから、青や、緑の、似合う年ではない。
ふたりは男の知り合いを待っているのだった。
目の前を家族連れが通り過ぎて、そのファミリーレストランに騒がしく入場していった。
男には昔、妻子がいた。
女は男に絡めた指の力を少し強めた。
「キャンディー。もうすぐだからね」
その指の力に気づいたのか、男は女に優しい声をかけた。男は愛を込めて女をそういった馬鹿馬鹿しい愛称で呼ぶのだった、
「もう一つ、飴をいかがですか。ペール」
女は可愛らしい歯を出して男に問いかける。女もまた愛を込めて男をそう呼ぶのだった。
「じゃあ、もらおうかな」
その彫りの深い顔をゆるく崩した、男の笑顔は女をひどく安心させる。女は今、昔のいやなことを思い出したばかりだったから。
「ああ、あれ、」
男の指の先にはふたりの知り合いとその妻がいて、ちょうど坂を下ってくるところだった。
立ち上がりながら、「キャンディーの二年ぶりの焼肉タイム」と男は言った。二人は目を見合わせて口角を上げた。
「このきちがい」
女は自室の布団で横になっている、その顔に表情はない。女は肉のついた腕で殴られている、
「どうして自分の娘がこうなるのよ」
女は精神を病んで動けなくなってしまったのだった、
「このきちがい」
女はこの状況から逃れたくて、涙のついた瞳で天井のモビールを見ながら小さく歌を口ずさむ、
”Candy says I've come to my body”キャンディーは言う、自分の身体が嫌になったと……
「くだらない歌なんか歌って。頭がおかしいのよ」
また腕が飛んでくる。
”If I could walk away from me”もしも、この身体と別れることができたら……
女は次の日の朝早く、重い体を引きずってトランク一つで家を出た。女の携帯にはいつも母の「あたしを捨てたのね」という留守番電話が入っている、だけど、女は男と出会った。自らも様々を捨てた男と。女に愛を込めてキャンディーと呼ぶ素敵な声と。
女は焼肉を楽しんだ。友人夫妻のはなしもすべて。それでもその店には家族連れが多くて、女は席の下で、衣服を通して男の腕と触れるたびに胸がひどく軋む悲傷感を味わった、女は考えすぎなのかもしれなかった。だけど、この食事が終わったら女は話そうと思った、自分がこれまでいかに何を捨ててきたかを。そして男と出会ったかを、とても切実に。男なら話を聞いてくれるはずだった。わかってくれるはずだった。女の罪悪感を、一番よくわかってくれるはずだった。だけど、アルコールは全てを霧の彼方に追いやって、もう、楽しいことしか、嬉しいことしか、頭に浮かばなくなる。
「それじゃあ」
友人は女と男に挨拶をして、妻と家の方向へ歩いていった。結局いろいろなバーを回って、夜中になっていた。
「キャンディー、まだまだ僕は素面だよ」女は大声をあげて笑った、なぜなら足がふらついていたし、男がそういう時はすでにいつも酔っていることを知っていたからだ。
「そうなの、ペール」
「そうだよ」鍵を回しながら男は女に笑いかける、女はその胸に溜まった、言いたいことをこらえて、笑みを返す。
二人のその部屋は環七沿いにある八階建ての2LDKだ。ベランダからは国会議事堂やスカイツリーが一望できるような、そんな場所だった。二人はこの夜景を見ながら、よくベランダで飲むのだった。
「キャンディー、飲もうよ」
「これから?」
「そうだよ」
男は二人分のウィスキーを作ってベランダのベンチに腰掛ける。女も隣のベンチに座る。さすがに夜中だからか、少しの車が走っていようと、泣きたくなるほどの静けさだった……だからこそ女はいろいろ考えにふけってしまう、彼女の自室には、やめられない自傷行為のための剃刀や、医者から処方された睡眠薬や精神薬が山積みになっていたし、そう、あのトランクも、捨てたつもりになっていても捨てきれてはいないものばかりで、その過去が女の心をひどくかき乱すのだった。強力なアルコールが嵐のように過ぎ去ってしまったこんな時は。
「キャンディー」
頭がいっぱいになってしまっていた女はふと男から呼びかけられて、驚いて振り返った。どうしたの、と聞かないでほしかった。
「キャンディー」
男はまた呼びかけた、
「素敵だね」
「え?」
「今日は、楽しかったね、素敵な日だったね」
男はウィスキーを一口飲んで、女のたまらなく好きなように笑った。
女は泣き出してしまいそうになりながら、夜景を眺めた、それは心なしか涙で揺れているように思えた、女は顔を腕に埋めた。そして、そのまま首を何度も何度も振った。
「そうね、素敵ね」
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