なりたいオトナ/いままでのさよなら
NHK 教育・Eテレには『みいつけた!』という「4~6歳児向け教育エンターテインメント番組」がある。この番組がとにかく素晴らしい作品であることは,周知の通りである。僕もこの番組を観て育った。大学生になってしばらく経ったころ,この番組と思いがけないかたちで出会い直すことになった。音楽ストリーミングサービスでサウンドトラックを聴いたのだ。「幼かった頃を思い出して懐かしい」とかそういう次元ではない衝撃がそこにはあった。おそらく「ブッ刺さった」ということなんだと思う。
僕はちょうど,大学でのリベラルアーツ教育がもつ意義を自分ごととして理解し始めていた。自分の信じるべきものを自分の手で探っていく実感を初めて抱いていた頃だった。そんな僕に,『みいつけた!』を貫くコンセプトが音楽を通してブッ刺さった。特に,自己決定権の行使(エンパワメント)を支援するオトナのことばの数々が効いた気がする。
サボさん,みやけマン,オフロスキーといったキャラクターはいまの僕が目指しているオトナを体現しているのではないか——そう気づいたときに覚えた「答え合わせ」の感触は言葉にならない。たとえば資本制/家父長制や行き過ぎた能力主義に疲弊し,それらを疑問視する気力を失い,マジョリティ特権を省みることをやめ,それらに呑み込まれかけるとき,よく真面目に生きて,信じるもののために働き,責任あるオトナとして社会への粘り強い関与を続けていくんだという決意を思い起こさせてくれる。『みいつけた!』のサントラはそういう存在だった。
また,特に刺さって抜けなくなった曲たちをよくみてみると,そのいくつかが「作詞:宮藤官九郎/作曲:星野源」という組み合わせによるものだと知った。僕にとって星野源という音楽家はあまりに重要すぎる。彼の音楽が僕の内面の幹にあたるものをかなりの部分で形作っているといっても全く過言でないから,サントラの曲たちが肌に合うのも納得だと思った。それから,宮藤官九郎も僕のクソみたいな思春期に一枚噛んでいたことを思い出した。中学生の僕は『宮藤官九郎のオールナイトニッポンGOLD』のリスナーだった。僕が聴いていたころはちょうど「一行から出来る作詞講座」という人気コーナーで『お風呂はぬるめの勝次郎』をつくっていた。なされるべき性教育の真反対をゆくこんな言説空間へのアクセスを持っていたなんて今思えばとんでもないことで,なんということだと頭を抱えるほかない。ほんとうにありえない。
そういえば,僕にはなぜか人が居着かない。たとえば進学すると,決まってみんな僕のもとから離れていく。別にそういうタイミングに限らず,いろんな人がどこかへ行ってしまった。離別のとき,「お世話になった」とか「君のおかげで〇〇できるようになった」とかそういうありがたい言葉を半ば社交辞令的に添えてくれるのがよくあるパターンだ。みんなはやさしいから,感謝のオブラートで本質的な不満を包む。僕はバカだから,なんでみんな僕から「卒業」するみたいな言い草して去っていくんだろうと素朴に疑問する。この構図に僕はずっとコンプレックスを抱えてきた。大学生だった頃は「僕と関わろうと思ってくれる人が現れたとしても,その人はあくまで事務的な(つまり当座のプロジェクトを成功させるための)関わり方だけを想定しているにちがいない」と一律に前提して,このコンプレックスをやり過ごしていた。こう思い込んでさえいれば,いつもの離別が訪れても「期待にはきちんと応えられたんだ」と差し当たりは前向きに解釈できる。でも,こういうやり過ごし方は,人を僕から離れさせてきた真因に向き合うことを放棄するに等しく,僕自身もよくないことだと思ってきた。
ところが,つい先日『グローイングアップップ』(作詞:宮藤官九郎/作曲:星野源)を聴き直していたところ,この問題意識を突き刺すような厄介な読みを新しく見出してしまった——ひょっとすると僕って「ごはんのときにすわるイス」や「さんりんしゃ」の不貞腐れバージョンみたいな存在なんじゃなかろうか。人の内面的なありようの変容に対してレスポンシヴでなく,「せいちょう」しゆくその人に窮屈な思いを溜め込ませてしまっていたのかもしれない。僕は自分がそうありたいと願うものよりずっと保守的なのかもしれない。そう考えると,いろんなところで辻褄が合う。さらに,僕がやってきた問題のコーピングは,度重なる新たな出会いを次なる「いとこのマーくん」としてしまうことだったと言えそうだとも思った。「じてんしゃさん」にあたる人に会わせてもらえることなどないのだから,そういうやり方になってしまったのにもやむを得ない部分があったのだろうという慰めも併せて得た。
仮に僕が「ごはんのときにすわるイス」や「さんりんしゃ」の不貞腐れバージョンだったとして,僕はどう変わればいいんだろうか。どうすれば大好きな人たちに窮屈な思いなくのびのびとし続けてもらえるんだろうか。どうすれば程よくレスポンシヴな人になれるんだろうか。あるいはむしろ,僕は人に居着いてもらえるような人になろうとするのをやめ,むしろ不貞腐れない「ごはんのときにすわるイス」や「さんりんしゃ」になろうとすべきだったりするのだろうか。
さあ,明日からいよいよ僕の秋学期が始まる。