「ごめんね オデッセイ」amazarashiのMVをみて
これはあくまで、感想と考察ね。
恐らく、これは「いまを生きる若者」じゃなきゃ理解できないんじゃないかな。
社会の労力として、性的に女として消費されていく、日本社会が「普通」になってしまって、それを誰もが気に停めず、不景気な社会、腐った環境で生き抜く術として、弱者としてしか生きられない若者たちが果たして悪なのか。
それを何も見ずに、一瞬として流れるニュースのように、スワイプされるネット記事として流すことは「普通」なのか。
そんな若者にこそ、未来があって。
でも、行けども行けども、地獄しかなくて。逃げるように死ぬことも簡単に出来るわけなくて。
朝日や空に夢や希望を馳せても、個人そのものの現実に夢を馳せることは出来ない。
だから空は綺麗にみえる。
だからせめて、今を生きる。それが大人にはクソみたいな生き方でも。
抗え!なんて簡単に大人はいうけど、そんな簡単に環境を変えられたら苦労はしない。
今を見つめて、今と向き合って
身体すり減らしながら生きるしかないから。
けど、大衆はそんな個人的苦悩などに寄り添う暇もなく、自分で精一杯なので、簡単に「エモいね」「綺麗だね」「興味ない」ってそいつらを一瞬の時のように、消費して、作品として完結させて、終わらせて。
この映像もそれで終わらせてる。
あくまでこんなもんだよね。って。
ノンフィクションなのに、フィクションとして消化させる。
だからって、特に解決策がある訳でも、だからって、何かする人が現れるわけでもない。
だから個人で何か、絵やら作品に昇華させるしかない。
なんだよこれ、クソじゃん!っていう人たち。
Amazarashiって本来、大勢の人たち、全員を満足させるためにやってるわけではないと思う。
そんな大勢の中の誰か一人、皆に埋もれて苦しんでる誰かに向けて活動してるバンドだと思う。
ただ、長く活動して、有名になって、昔はそれで救われたって人が沢山集まってるから、それがそのファンの集まりに響かない。
いつしか、それが「大勢」になってしまって、そんな人たちも、気づけば大人になっちまったから。
若者ではないから。
前みたいなエモさで俺らを現実から逃避させてくれる、アニメ的なやつにしてくれよ!って。
でも最初に言ったように、未来がある若者としていた自分が、その時抱えていた苦悩を救われた僕たちが、いつしかあの時、若者だった自分を邪魔してた「クソな大人」になってる。
それがYouTubeのコメント欄かな。とも思った。
もちろん、この映像の中のその人を理解することは出来ないし、その人が誰かもしらない。
だから、「いや、俺を満足させてくれよ」って独りよがりの「メンヘラ集団」となっちまった。
でも、それはこの若者たちを理解できない大人になっちまってるってことなんじゃないかな。
本当は、今の日本社会という現実を切り取る時に、その時代の若者が、一番その現実を知ってるはずで。
それに目を向けて、今まで活動してきているamazarashiがしてたことを、大人になっている君たちはどうするの?って提議してる気がした。
だから、これは大人に向けた課題であり、その若者に向けた晩餐歌なのかもなぁって。
若者たちの酒をかっくらって、楽しそうにしてる姿でさえ、現実への諦めでそうしてるようにみえてきて、本当は「日の光」を望んでるようにみえた。
だから映像で分かりやすくでもなく、アニメでエモくでもなく、リアルを表現できる写真という媒体を使って、断片的な切り取りという表現をしたのかなって。
そうでないと、考えるという行為をさせなきゃいけない大人たちへのメッセージにならないから。
トー横とかブラック社会とか、いじめとか、本当に現実にあるリアルを見せられても…とか、これをエモいよねってつくってるのうぜぇって思っている人たちが出るのをわかってて、そんな人たちに、「これが今の日本のリアルだよ、うぜぇって思う君たちは、本当に現実に目を向けてるか?」っていう、メッセージなのかなって解釈した。
でも、そんな大人になった僕たちだって、苦悩を抱えてるし、そんな経験をしてきているのだから、手を差し伸べることは出来るんじゃないかな。
「木漏れ日」になることは出来るんじゃないかな。
個人的には、久々にamazarashiっぽいなって感じた。最近は、悪い言い方をすると大衆に迎合してるようなMVな気がしたから。別にそれらも嫌いではないけど、個人に向けてってところで、そう感じたかな。
まぁ、前提として、この作品を秋田ひろむ氏が納得していたら、という話ではあるけどね。。
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