遊庵/ゆあん

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最近の記事

誰でも制作する現代とヘンリー・ダーガーと小学生の心

世界ではなく、日本に限った話ではあるが、 現代には、沢山の絵師やらアーティストがいる。 昔の時代にも沢山いた可能性もある。 しかし、今日ほど陽の光を浴びられる人はいなかったではないかと思う。(戦争、生まれた国、経済的に等) 現代はその真逆を走るほどに、街中歩けば、やれ個展、やれグループ展、沢山ある。 美大出てる、出てないは関係ない。 経歴がというのも関係ない。 誰でも展示を出来る機会が設けられている。 そして、それは別に絵が上手い、下手も関係ない。 蛸壺式にファンという関係が

    • 「ごめんね オデッセイ」amazarashiのMVをみて

       これはあくまで、感想と考察ね。   恐らく、これは「いまを生きる若者」じゃなきゃ理解できないんじゃないかな。   社会の労力として、性的に女として消費されていく、日本社会が「普通」になってしまって、それを誰もが気に停めず、不景気な社会、腐った環境で生き抜く術として、弱者としてしか生きられない若者たちが果たして悪なのか。   それを何も見ずに、一瞬として流れるニュースのように、スワイプされるネット記事として流すことは「普通」なのか。   そんな若者にこそ、未来があって。

      • 出会いと別れに抱く幻想

         人は、生まれてから現在まで、沢山の人とすれ違う。 交差点、駅のホーム、公園、学校、職場…。 その中で、心の壁を通してもよいとする人間が存在し、それらと知り合い、友達、恋人、夫婦となる。 だが、どんなに八方美人であろうとも、1度知り合った人と死ぬまで知り合いということはない。 生物がいずれ死ぬように、付き合いの関係性にもいずれ死がくる。 さて、ここからが本題なのだが、学校や職場で、仲良くなった人も気づけばもう会うことが無くなってることがある。 その時、大抵の人は、 あ

        • 炭酸(短編小説)

          進む。視界が進む。  それは、体全体が動いているから。  頭から体から足へ 順に力を込めて、全体が前へ前へ倒れ動いたので、結果、私は歩くという動 作を行ったことになる。  しかし、それは必然ではない。 私とは関係のないは ずなのだ。 私は何をされているというのだろうか。一体、何に向かっているのだろうか。 また歩く。 今度は右ではなく左へ重心を寄せることで歩くという動作を行う。 歩く、歩く。 私はもうひたすら歩き続けてきた。これらの行為によって、 私の魂は私の体は、いや、私

          天才でなくてごめん

          Dear.小学生の私へ  あなたがタイムカプセルに込めた文書は、 『「教師」になってますか?』   でしたね。  私は今、東京の美大の大学院で美術学んでます。残念ながら、大学在学中に教師の資格は取れませんでした。理由は色々ありますけど、人生上手く思った通りにはいかないことを痛感しました。  あなたは、今絵を描くことに夢中だと思いますが、それでいいです。なんなら、もっともっと自由に描いてください。  そして、美術の面白さを知っていってください。同時に、難しさを知ってい

          天才でなくてごめん