出会いと別れに抱く幻想
人は、生まれてから現在まで、沢山の人とすれ違う。
交差点、駅のホーム、公園、学校、職場…。
その中で、心の壁を通してもよいとする人間が存在し、それらと知り合い、友達、恋人、夫婦となる。
だが、どんなに八方美人であろうとも、1度知り合った人と死ぬまで知り合いということはない。
生物がいずれ死ぬように、付き合いの関係性にもいずれ死がくる。
さて、ここからが本題なのだが、学校や職場で、仲良くなった人も気づけばもう会うことが無くなってることがある。
その時、大抵の人は、
あの人今頃何してるかな。SNSでまだ繋がってたっけ? もしかしてもう死んじゃってたりしてw
なんて思いに耽ったりする。
私はこの感情は「無意味な逃避」だと考える。
その人に会う術もなければ、連絡を取る方法がないのかもしれない。もしくは、連絡取れるけど、めんどくさいとか色々考えて、連絡を取ろうとしないのかもしれない。
それは、果たして付き合いにおいては、良いことなのか。
たった1度きりの関係性が別れたことを、そこで終わりと諦めていいのだろうか。もちろん、これを悪化させた形が、ストーカーやら凶悪犯罪になるのだろう。
しかし、相手が拒絶をしてないにも関わらず、勝手にこちらから縁を切るように、思いに耽けるという行為で、自分自身だけが納得して現実から逃げてよいのだろうか。
そして、大抵はまた「新たな出会い」と存在するかしないのか分からない、薄い希望に期待する。
ネットワークの発達によって、現代では簡単に「繋がる」ことができる。しかし、どうもそれらは、ペルソナを沢山被った1番表層同士の関係にしかならない。
そこから踏み込めるのは、あくまでひと握り。
だが、そのひと握りしかいないことを問いたい訳ではなく、そのひと握りになるまで、どれだけの人たちから逃げて捨てたのか。「者」としてではなく、「物」として扱うように。もしくは、1つの「数字」や「データ」として。
では、人との付き合いは、真剣に慣れないのであれば、独りになれということか。
いや、違う。
元来、人間は皆独りなのだ。思うに、独りではない状況というのは、全ての思考、行動、感情が全て伝わっている状態を指す。そして、そんな状況は現代には未だに存在しない。分かり合えない何かがあるというのは、それを独りで抱えるしかない。
では、どうしたらよいか。
皆を「人間」として接することである。
人間として接するとは、様々な仕草、思考、言動、行動をわかる範囲で読み取り、自身に出来る範囲で接すること。
そして、関係に死が訪れても、お互いに満足いく形であること。見返りは求めない。
これまでの思いに耽けるというのは、一方的な満足である。だが、これはお互いの満足である。
しかし、果たして本当に相手も満足しているのか分からないこともある。
そこで行うのが、久しぶりに連絡を取ることである。
もし、お互いに満足していれば、こちらから連絡を取ることに、抵抗は少ないはずだ。
また、相手からの連絡もそこまで長い期間放置されることないだろう。
結局、思いに耽けるのは、何かしらの嫌な気持ちがあって、それをその人ごと綺麗に忘れたいから、良い記憶だけをそれに上書きしているだけに過ぎない。
さて、何故こんなことを考えたのかというと、別れというものが、現代においては、希薄に思えたからである。
そして、画面上を真の繋がりとし、現実は偽物の繋がりのようだと思ったからである。
「現実はもっと面白い」
これは私の作品のコンセプトの1部からの切り抜きである。
何故面白いのか。それは、全て自身の上手くいかなくて、複雑な環境の絡まりがあって、想像の出来ない人間が沢山いる中で、悩んだり、喜んだり、一定の状態なんてない世界を面白くないといえるだろうか。
ネガティブな思考でいえば、何も上手くいってなくて、地獄なのかもしれない。
だが、人間にはどうせ死が訪れ、この経験も1度きりだとしたら、めちゃくちゃ苦しんだ方が勝ちな気がしてならない。
そして、どんな人生を過ごして、どんな人間になったのか、それが今の自分。
それはもちろん、自分自身に限った話ではない。
ならば、人間に接しない理由がない。
結果、私の作品のコンセプトは「繋がり」となり、「多重立体交差平行世界論」となった。
私のコンセプトのゴールは、
「友達100人出来るかな」
である。つまりは、皆と友達になることである。