共感しすぎる、ということ
「共感することって、ぼくは放漫だと思うんです。」
向かいあうソファ席に座った友人はいつも通りのおだやかな口調で、しかしながらきっぱりとそう言った。
梅雨明け直後の週末、繁華街のカフェの窓ぎわは一段と眩しい。
お冷のグラスに集う水滴をいつもより丁寧に拭きながら、さきほどの言葉が心の底に着地するのをじっと待っていた。
打ちのめされそうな言葉ほど、時間がかかる。
カフェでのできごとは「もう、ごまかせないんだな。逃げられないんだな。」という自覚が芽生えた瞬間でもあった。
共感しやすい性格だったことを、まったく自覚していなかった。そしてそれが自分の悩みの大半を占めていたことに驚愕した。
どんなことでも無自覚が一番恐ろしいことだと思う。
ただ、気付いてしまったなら腹をくくるしかない。
受け入れて折り合いをつけて、うまく付き合っていくことが自分を生きるということだ。
いまは少しずつリハビリをしている。
「共感」のもっとも怖いところは、相手の気持ちを「わかったつもり」になっていることだろう。
少なくともわたしはそうだった。
自分のなかで勝手にイメージが広がっていき、あれこれ想像をはじめる。
それをあたかも目の前のひとの現実や真実のように受け止めてしまう。
相手のことなどまったく見ていない。
自分の世界で完結してしまっているのだ。
これではすれ違いが多発する。
自己責任とはいえ、傷つくことも多かった。
相手にかけた共感という呪いに、自分が毒されていた。
ただ流されるように共感だけをして、自分のイメージで作り上げた相手ばかりを見ていたことに気づいたとき、心底絶望した。
なんだか取り返しのつかないことをしてきてしまった気持ちになった。
実際、取り返えせることはない。
そして決して取り返せないのであれば、過去に対してなにもできることはないのだ。
たくさんの失敗があったからこそ、わたしの人生には膨大なサンプルがある。
不安感や自己重要感が下がったとき、わたしは共感を発動していた。
漠然とした不安を、共感という想像で塗り固めて安心を得たかった。
共感とは感情からはじまる。
例えば悲しんでいる人がいたら、無性に会って話を聞きたくなった。
自分が本当に会いたい人なのか、また相手が人に話したい気分なのかなどは関係なかった。ただただ、相手の悲しみに引き付けられていた。
いまでも、気になってしまうことはよくある。
そんなときは少しだけ落ち着いて考えるようにしている。
自分の気持ちに目を向ける。
大切にしたいことの順番をつけていく。
そうすると膨らみそうになった共感(勝手な想像)のイメージはしゅんとしぼみ、ちっぽけでかわいらしい現実が見えてくる。
そうか。
わたしはちょっと大げさでドラマチックなことをつい望んでしまうんだ。
等身大の現実だってこんなに素敵だったのに。
話は冒頭のカフェに戻る。
「共感とは放漫だと思うんです。」という言葉には続きがあった。
「自分は人に共感することができないから、変に考えて分かった振りをしたくないので、人の話を聞いて理解して解決したいんだと思っています。」
共感することばかりが思いやりではなかったことに、衝撃を受けつつも不思議と安堵した。
むやみに心をすり減らして共感できなくても、理解しようとするまなざしこそ、探し求めていた「やさしさのかたち」だったかもしれない。