
フェイ・エンダー/おわりびと④ 第一章 異能の者「1-2 ならず者の巣立ち」
第一章 異能の者
1-2 ならず者の巣立ち
(前作 「1-1 老婆 vs 刺青男 」のつづき)
首の辺りに痛みを感じて目を開けた。
手で拭ってみると指先に大きな蟻がへばりついている。
フィオランは慌てて起き上がり、その場から飛び退いた。
ゴツゴツした蟻塚の真上に寝転がっていたようだった。
体中から蟻を払い落として、周囲を見回す。
そこは赤い土と岩だらけの荒涼とした台地がどこまでも広がる殺風景な場所だった。
恐らく、遠くサジェットの郊外にまで、あの不思議な川に流されてきたのだろう。
狐につままれたような気分でフィオランは老婆の姿を探した。
蟻塚からそう離れてはいない場所に白いものが蹲っている。
フィオランはほっと安堵して近寄った。
呻き声を上げながらフラフラと立ち上がった人間は、刺青男に殴り倒されて気絶しているはずのベヒルであった。
「うぅー……頭が痛い……ここはどこだ?」
頭をさすりながら顔を上げ、自分を凝視しているフィオランをみとめて驚喜する。
「フィオ! 無事だったんだね」
走り寄ってきて自分の両腕にすがる相手をじっと見下ろしながら、フィオランは自分の失敗に歯噛みした。
枯れ木のような腕に安心したが、あれはこいつの腕だったのだ!
フィオランの眼が剣呑な光を帯びてきたのを見て、ベヒルは掴んだ袖から手を離した。
(ばあさんを置いてきちまった)
意識を失う前に見た光景を思い出す。
目を疑うような戦いを繰り広げていた老婆。
殺しても到底死ぬとは思えないが、あの薄気味悪い男たち相手ではさすがに心配だった。
(自分は大丈夫だとしきりに言っていたが……)
「メリュウ婆さんは、そのう、妖術使いなのかい?」
ちょうど自分が考えていたことをベヒルが代弁した。
フィオランはまじまじとベヒルを見つめる。
「産婆で薬草狂いの頭のおかしいただの婆さんだと思っていたけどな。どうやら『異能者』というやつらしい」
そういえば、あの黒衣の男は老婆を巫女と呼んでいた。
「異能者? 十万人に一人出るか出ないかという特殊能力者のことかい? 常人には想像もつかない不思議な術を使うと聞いたことがあるけど……初めて見た」
ぶるりとベヒルは体を震わせた。
「幼い頃からずっと一緒に暮らしておいて、きみは知らなかったのかい?」
「ああ、時代遅れの変な杖をいつも持ち歩くとは思っていたけどな。……それより、てめえなんであんな所にいたんだ」
老婆と間違えて腕を引っ張ってしまったことを、フィオランはまだ悔やんでいる。
「あれは……光に、そう光について行ったらきみの所に辿り着いたんだ」
「光?」
「そう、頭を殴られて気絶してたけど、目が覚めたらぼうっと白い光が目の前に浮かんでいて、ゆらゆらと動いたんだ。ついてこいと言っているような気がして、後を追いかけた。するときみたちの声が煙の奥から聞こえてきて、僕のせいでとんでもないことになっていると怖くなって…」
「…そう、おまえのせいでな」
綠の眼を物騒に細められ、ベヒルは怯えて顔を俯けた。
「ご、ごめん…。あんな恐ろしい連中とは思わなかったんだ。ダナー正教会から遣わされてきたと名乗られて、きみに昔世話になったから礼がしたいと言うから、すっかり信用してしまったんだ」
ビクビクと言い訳を聞かされ、フィオランは長い溜息を吐いた。
簡単に人を信用して、いつも痛い目に遭うしょうもない性格は今に始まったことじゃない。
文句を言う気力も消え失せた。
「おまえ、あいつらに俺を『モーラのフィオラン』だと教えたか?」
「え? いいや?」
ベヒルはびっくりしたように否定した。
そしておずおずと尋ねる。
「きみ、モーラの出なの? やっぱりそうじゃないかと常々思っていたけど……。モーラのことはあまりいい話じゃないから黙っていたけど、その珍しい緑の瞳といい、容貌といい、長い脚にその髪の毛。伝承でのモーラ族そのものだよ」
ベヒルはうっとりとした眼で、風になびく相手の頭髪を見やった。
「きみ、赤毛だったんだね……。初めて見たよ。炎みたいでとても綺麗だ」
「なんて目付きしやがるんだ、気色悪い」
フィオランは顔を顰めてベヒルの頭を乱暴に横へ向けさせた。
「きみ、何かとんでもない悪行を働いたのではなかろうね? あんな集団で襲ってくるなんてただ事ではないよ」
ビンタを張られたくらいの勢いで顔を背けさせられ、ヒリヒリ痛む頬をさすりながら、ベヒルは疑いをかけた。
それみたことかという目付きをされて、フィオランは腹を立てた。
「俺をそんなに悪質な犯罪者に仕立て上げたいのか。あんな薄気味悪い連中は金輪際知らねえ。会ったこともねえ。心当たりも全然ねえ――」
言いかけて、押し黙った。
本当に心当たりはないのか?
いや、大いにある。
だからこそ、危険を察知して逃げだそうとしていたのだから。
幼い頃から逃亡の日々だった。
かなり大きくなるまで一ヶ所に定住することもなく、老婆と二人あらゆる土地を渡り歩いた。
土地に馴染んで友人が出来てもすぐに別れが訪れるので、その内親しい交流を他人に求めなくなった。
まるで旅の楽団か行商人のような生活をなぜ続けるのか、一度だけ老婆に尋ねてみたことがある。
老婆はこの時だけは、その口の悪さを少し改めて答えてくれた。
「あたしやおまえはこの世界ではお尋ね者なのさ」
まだ七歳やそこらのフィオランは自分たちは犯罪者なのかとショックを受けた。
「おまえは自分が他の子供達とはどこか違うと気づいているだろう? 他の人間は誰一人として持たない、自分にだけある妙な力」
フィオランは頷いた。
それを見せて、前の居住先では大人たちが悪魔の子だと大騒ぎしたのだ。
「それはおまえの体に流れるモーラの血の証。決して恥じ入るものではないから胸をお張り。ただ、おまえの力は少しばかり強くてね。それに気づいたちょっと目端の利く輩がおまえを欲しがるのさ。奴らに取り込まれたら自由が利かなくなっちまうからね。それで逃げ回っている」
いつまで逃げる?
その質問に、老婆はフィオランの背後にじっと眼を据えて言った。
「……時が来れば。おまえは自分で選択するだろう」
幼い頃から、悪い人に掠われるから頭髪を隠せと、南国人のように頭を布で巻かれた。
本名を誰彼構わず教えるな、モーラの名を出すなと言い聞かされて育った。
フィオランに植え付けられた価値観は、他人を疑ってかかれ、他人を見たら泥棒か人攫いと思え、自分の身は自分で守り同情するな、だった。
お陰で二十三歳となった今、容易に本心を見せず、人を平気で利用し金を巻き上げる小悪党になっている。
自分は孫なのかと尋ねたところ、老婆は発作を起こしたかのように声もなく笑った。
幼いフィオランは、そのあまりにも不気味な笑い方に恐怖を覚え、しばらく夢でうなされた。
「おまえがあたしの孫なら、あたしは随分若いことになるさね。おまえはあたしの曾曾曾曾曾孫だよ。同じモーラ族というだけでほとんど他人だね、こりゃ」
老婆の頓狂な話にフィオランは目を白黒させた。
曾曾曾曾曾?
人間がそんなに生きていられる訳がない。
いつもの軽口だと理解したが、老婆の年齢不詳の(もう確かめるのも無駄なほど)容貌を目にすると、時折あれは真実なのではないかと気味悪く思ったものだった。
「きみ、どうするんだい? 僕はサジェットにとりあえず荷物を取りに戻るけど、きみは危険だろうなあ」
物思いに沈んでいたところ、のんびりとした口調に意識を引き戻された。
そうだ。俺はこれからどうする?
問いかけながら、実はとうに腹が決まっていた。
「そうだな、とりあえず東へ行ってみるか」
一見気まぐれな口ぶりだが、ベヒルは藪蛇だったかと気を揉んだ。
「そ、それはその……まさかラダーンへ行こうと思ってるんじゃあ」
「おお、よくわかったな。ま、道中よろしく頼むぜ」
ベヒルの顔がみるみるうちに暗く曇った。
余計なことを言わず、さっさと別れるべきであった。
「いや、僕はその、荷物を取りに戻らなければならないから」
「やめておいた方がいいぜ。俺に関わっておまえも張られているだろうからな。おまえがどこの何者なのか、あの連中はとっくに調査済みだと俺は踏んでるぜ」
「本当にきみ、何をしたんだい! きょ、経典や司教様から頂いた任命状や三つ星蝋燭がないと困るんだっ。それに着替えも――」
「途中で買えばいいだろうが。任命状はスリにあったと言えばいい。
その首からぶら下げているメダルを見せれば身元はすぐ割れるんだろう? 何も問題ねえ」
「リガの印綬と言ってくれ、失敬な」
本物の銀の素材で緻密な彫刻を施された徽章は『リガの印綬』という。
この大陸全土に大きな影響力を及ぼすダナー正教会の司教・司祭だけが持つことを許される身分証であった。
大司教以上の地位になると、この徽章は黄金となる。
「このまま旅立ったほうが利口ってもんだ。せっかく逃げてきた火事場に戻る馬鹿はいねえ」
さて、と腰に手をやり東の方角へ体を向けたフィオランへ、ベヒルは恐る恐る声をかけた。
「……ひとつ聞くけど、ラダーンへ行ってどこか当てでもあるのかい?」
振り返ったフィオランは不思議そうな顔をした。
「ねえよ。勿論おまえの所へしばらく厄介になるぜ」
げっそりしたベヒルへ、フィオランは緑色の眼を脅すように光らせた。
「まさか、身の寄る辺もねえ友だちを閉め出すなんて、そんな情けのねえ仕打ちはしねえよな?」
ぼそぼそとベヒルは呟き、首を項垂れながら歩き出す。
出来ることなら、この場に身を投げ出して神に真意を問い質したい心境だった。
これは何の思し召しなのだろうか?
晴れやかな門出が!
よりにもよって、ならず者のようなフィオランが旅の道連れだなんて。
泣き出しそうな顔のベヒルにフィオランは更に追い打ちをかける。
「なあ、その頭巾俺に貸してくれないか? この頭じゃ目立ってしようがない」
自分の頭部を指し示されたもの。
それは聖職者の制服のひとつで、僧服とは分離した特殊な頭巾であった。
頭頂部が尖っており、顔の両側に長く布を垂らした聖職者のシンボルとなっている。
ベヒルはついに泣いてしまった。
泣きながら黙って被っていた頭巾を差し出す。
「悪いな。適当な被り物を見つけたら返すよ」
そう、フィオランは一応慰めておいた。
二人は北東へ向かって歩き出す。
この台地に続く岩山の先に街道が有るはずだった。風に舞い上がる砂埃を避けて顔を横向ける。
目視は出来ないが、このずっと先には故郷ともいうべきサジェットがある。サジェットを通過せず、迂回しての道のりを選ぶことになった。
メリュウ婆さんをおいて旅立つことに後ろ髪を引かれるが、今が『その時』だとはっきり確信している。
老婆がかつて言っていた、自分で選択をする時。
「ところで、三つ星蝋燭って何だ?」
フィオランは湧き始めた情を切り捨てるように、全然違う話題をベヒルへ振った。
嫌々後を付いてくる若き司祭はぼそぼそと呟く。
「ぼ、僕が勝手に命名しただけなんだけど……。まだ僕が見習い僧の時に、尊敬する方から頂いたものなんだ。珍しい香草を練り合わせて自ら作られたもので、火を灯すととてもよい香りがするんだ。緑色をしていてね、僕は一生の宝物として大切にしようと――」
「あ、そう」
途端に興味を失って、フィオランは殺風景な景色へ白けた目を向けた。
~次作 「1-3 月夜の麗人」 へつづく