フェイ・エンダー/おわりびと③ 第一章 異能の者「1-1 老婆 vs 刺青男」
第一章 異能の者
1-1 老婆 vs 刺青男
( 前作 「 prologue-2 」 のつづき )
サジェット市街地より西へ抜けた郊外に、広い森がある。
乾燥地帯であるこの地方では、数少ない緑地のひとつだった。
陽射しが赤茶けたレンガだらけの建物に照り返る、うだるほど暑い市街とは打って変わって、ここでは鳥や虫の声が溢れ、森の清浄な息吹に守られて空気は澄み切っていた。
木洩れ日に照らされた落ち葉だらけの道を、フィオランは早足で駆け抜ける。
上客だと見込んだ例の男女は、高級旅館まで案内してそこで別れた。
また来ると言い添えたが、もう二度と会うつもりはない。
ついでにこの街ともおさらばだ。
女を抱き取った時に受けた衝撃を思い返す。
鮮烈な映像が、堰を切って氾濫した川のようにどっと脳内に雪崩れこんできたのだ。
天を突き刺す勢いで立ち並ぶ高い尖塔。
険しい山脈の麓にどこまでも黒々と横たわる大都市。
大理石と黒曜石で出来た粋を極めた宮殿。
その宮殿に火の粉が降り注ぐ。
大都市を睥睨するひときわ高い山が火を噴いていた。
大勢の人間が逃げ惑う中、玉座に身じろぎもせず座り続ける陰気な老人。
そして寝台に横たわり、死の微笑を浮かべる一人の男。
旅装姿の一連隊が馬を駆って王都の外門を潜っていく。
それら数多くの情報が一気に押し寄せ、フィオランの息を詰まらせたのだ。
極めつけは最後の映像であった。
黒光りする床へ胃の中のものを吐き散らし、のたうち回る人間たちの姿があった。
彼らは刺青を施した顔を苦悶に歪め、泡を噴いて絶命していった。
藍色の刺青と昔の西域の種族が身につけていた古風な衣装が、その壮絶な死をさらに強調していた。
一人の女が宮殿を抜け出し、闇に紛れて逃げていく。
腕に何かを抱えている。
それが赤ん坊だとわかったのは、雲間から差し込んだ月光に照らされたからだ。赤ん坊と女の髪が月の光に輝き、眼にも鮮やかな赤だったのが印象的だった。
(まったく悪魔的な啓示だぜ。ババアは奴らが来たらすぐに分かると言っていたが、これのことか?)
長い脚で一気に坂道を駆け上がり、鬱蒼と枝を張った大きな樫の木に隠れるように建つ小さな家へ駆け込んだ。
「おい、ばあさん! いるか?」
強烈な薬草の匂いが充満する狭い室内を探し回る。
よくよく注意して見ないと、彼が探す相手は小柄すぎて見落としてしまうのだ。
「おい、ばあさん!」
「うるさいね、耳元で喚き立てるない」
顔のすぐ傍で濁声が上がった。
ぎょっと顔を向けると、壁一面に吊された薬草の中からしなびた顔が覗いている。
相変わらず訳の分からないところにいやがって、とフィオランは口の中で悪態をついた。
「何やってんだ、そんなところで」
「何って荷造りしてるんだよ。おまえこそ、今までどこほっつき歩いていたんだい」
見れば、梯子に登って、皮袋に手当たり次第干した薬草を詰め込んでいる。
「大事な商売道具をおいてはいけないだろ」
「気づいていたのかよ。なら、なんで俺に知らせてくれなかった」
「現にちゃんと自分でわかったじゃないか」
梯子から大儀そうに降り立った老婆は、フィオランの股上くらいにしか背丈がなかった。
腰をつの字に折り曲げ、皮袋をよっこらせと背中へ背負う。
「わざわざここに戻ってくるなんて愚の骨頂だよ。その時が来たらさっさとお逃げと教えてきただろう」
「相変わらず強がり言いやがって……。そんな足腰でどうやって一人で逃げる気だ」
「馬鹿にするんじゃないよ。あたしを誰だと思ってるんだい」
老婆は卓に立てかけておいた杖を手に取った。
「このメリュジーヌ様は自分の身くらい簡単に安全な場所へ隠しちまえる。足手まといなのはおまえの方だよ。とっととお逃げ」
「大ボラこくのも大概にしやがれ。さあ、背中に乗れよ。俺の気が変わらないうちにな」
くるりと背を向けしゃがみ込んだフィオランの頭に、老婆は持っていた杖を振り上げいきなり打ちつけた。
不意打ちを食らって、目の前に火花が散る。
「……い、痛ってえ……何しやがんだ、このっ」
「さっさと逃げろと言ってるだろう! どんな相手が来るかわからないんだよ。へなちょこのおまえが出来ることといったら、尻まくって逃げることだけだろうが!」
「口のへらねえ、この糞ババア――」
痛む頭を抑えながら振り向き、首根っこを掴んでやろうかと思った。
だが老婆は杖を前方へ向けた姿勢で、窓の外に注意を払っている。
その緊迫した姿は、子供の時に一度だけ目にした以来だ。
「おまえが接触したのはどっちの方なんだい? …逃げ道を塞がれちまったかね」
どっち? どういう意味だとフィオランは首を捻った。
「俺は誰にも付けられてないぜ」
老婆の呟きに心外だと文句を言った途端、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おうい、フィオラン! お客さんを連れてきたよお」
先程喧嘩別れしたベヒルの声だ。
窓の脇に立って覗いてみると、ベヒルが後続の黒ずくめの輩に殴られ、地面に打ち倒されたところだった。
その背後には、頭巾を目深にかぶった灰色の集団が狭い道を埋め尽くしていた。
「なんだありゃあ」
「最悪な展開だね」
「あの阿呆、変なものをわざわざ連れてきやがって。さあ、逃げるぞばあさん」
裏口へ向かおうとするフィオランを老婆は止めた。
「囲まれちまってるよ。だからさっさと逃げろと言っただろう」
言った矢先に、裏口から闖入者が乱暴に押し入ってきた。
狭い室内で動きが取れず、辺りの物にぶつかって騒々しい音を立てている。
「わあっ、来たぜ、どうすんだよ!」
「慌てるない」
老婆は壁にぶら下がっている紐を引っ張った。
重い金属が転げるけたたましい音と共に、野太い悲鳴が沸き起こった。
恐らく、竈で煮ている薬草鍋がひっくり返ったのだろう。
部屋の奥から大量の煙と刺激臭が流れ込んできて、家中に充満した。
闖入者たちと一緒になって咳き込むフィオランを、老婆は杖で引っ掛けながら器用に室内を進み、裏口から脱出した。
森へ逃げ込もうとしたところ、手薄になった裏口へと表玄関から回り込んできた男達に見つかった。
老婆はいつの間に持ってきたのか、竈にくべてあった火の付いた薪を片手に、背負った袋から球状のものを取り出した。
手際よく導火線に火を付けて、次々と男達へ投げつける。
玉は落下しながら大量の煙をもうもうと噴出し、ついでに勢いよく弾け飛んだ。
「ばあさんっ、どこだ!」
辺り一面、濃い煙幕がかかり、敵味方どころか方角さえわからなくなった。
「馬鹿ぼうず! 早くお逃げ!」
威勢のいい声がすぐ近くであがる。
ほっとしてそちらへ足を踏み出したところ、ぬっと黒い影が前を塞いだ。
よく光る鋭い眼と口元を覆った黒い布が目に飛び込んできた刹那、ヒュッと風を切る音と同時に頭部を巻いていた頭巾が飛んでいった。
目にも鮮やかな赤毛が白煙の中を舞う。
次に気がつくと、剣の切っ先を鼻面に突きつけられていた。
「モーラの赤。しかと確認。おまえはエーティンの子フィオランだな?」
「初対面でおまえ呼ばわりかよ。失礼だな、あんた」
刃で脅されて緊張しながらも虚勢を張る若者に、男は感心したようだった。
「さすがモーラの民は誇り高い。おまえを迎えに来た。さあ、我らと共に来るがいい」
「なに、ほざいてやがる。俺は行かねえ。とっとと消え失せるがいい」
こんな局面でも、わざと口調を真似てみせるのはフィオランの人を食った悪い癖だ。
男の粘っこい口調がどうにも勘に障って我慢がならなかったのだ。
馬鹿にされていることに気づいた男は無言で剣を振り上げた。
柄頭を大きく前へ付き出しているのは、その部分で頭部を強打するためか。
身を躱そうとしたが間に合わない。
疾風の速さで頭に鉄塊が振り下ろされる。
それを一本の古めかしい杖がしっかりと受け止めた。
いや、正確には弾き返したのだ。
鉄塊と木杖が激突し、触れ合うギリギリの境界で薄い膜が生じ、ゴムのような弾力で攻撃を跳ね返したのだ。
黒衣の男は思いがけない抵抗にたたらを踏んで持ちこたえ、若者の前で蹲るように立つ小さな老婆を凝視した。
「ばあさん……何だ? 今のは」
訳がわからず、フィオランは目を白黒させた。
今のは何の手妻だ?
こんな転んだだけで昇天してしまうような老婆が大の男を跳ね返すなど、何かの曲芸としか思えない。
「よくお聞き。合図したら後ろの川へ飛び込むんだよ」
「川? 何言ってんだ、川なんてどこにもないだろうが」
「これから作るんだよ」
「はあ?」
このばあさん、ハチャメチャだと思ってたがとうとうおかしくなったか。
大真面目にそう思った。
老婆は体の二倍はある長い杖を、先程から円を描くように振っている。
集中した小さな眼をじっと黒衣の男へ据え、眼力で動きを封じているようにも見えた。
「お目もじ叶って光栄至極。巫女メリュジーヌ」
黒衣の男は少し会釈をしたようだった。
老婆は面白そうに皺に埋もれたまなじりを上げた。
「その若さであたしを知ってるなんざ、大した情報通だ」
「あなたと同じ、俺も見た目よりは年を取っている」
男の言葉に老婆は小さな眼を細めた。
体の裏まで見透すかのように全身をくまなく探った。
「おまえ、只人じゃあないね」
男はくっと声に出して笑った。
「只人の定義はよくわからぬが、少なくともあなたとは同郷だ」
男は口元を覆っていた黒い布を首まで引き下げた。
フィオランは驚きの声を口の中で飲込む。
口の周りには濃い藍色の刺青がびっしりと彫られていた。
何か植物の蔦ような絵柄だ。
酒場の女を通して垣間見た映像そのままの模様だった。
昔、老婆からその刺青の意味を教わったことがある。
顔の刺青はモーラ族男子の証であると。
かつて、西域を統べた巫覡の一族モーラのことを。
そして老婆の驚きようはフィオランの比ではない。
凍りついたように驚愕し、やがて呻いた。
「その顔は……おまえはイアンか? まさか生きていたのか? そんな馬鹿な」
「馬鹿な? なぜ? あの殺戮から生き延びたのは、何もあなた一人ではない」
老婆の目元が僅かに痙攣する。
「おいおい、一体さっきから何の話だ? ばあさん、こいつと知り合いなのか?」
口を挟んできたフィオランを、老婆は片手で制した。
男はフィオランへよく光る黒い眼を向けた。
「フィオラン、おまえの肉親に会いたくはないか?」
「何だって?」
苛立って老婆は話を遮る。
「おまえが本当にイアンなら、何をしに来た。どういう訳か、おまえからはあの腐れ坊主の嫌な匂いがぷんぷんするよ」
老婆は、男を援護するように取り巻く輩を暗に匂わせた。
この連中がどこの組織の者か勘づいているらしい。
男は答えない。
老婆は煙幕ごしに徐々に取り囲まれ、結界を張られつつあることに気がついた。
無駄話でだいぶ時を過ごしてしまったようだ。
身じろいだ老婆へ、獲物を追い詰めた獣のように男は目を光らせた。
「もう遅い。いかなあなたでもこの輪は突破出来まい」
「メリュウ婆さんをなめるでないわ!」
老婆は杖を男へ向けたまま、空いている片手を重い扉を開けるように後方へ差し伸ばした。
片手を向けた先の空間が、煙幕ごと両側へ強引に押し退けられる。
煙幕の中に身を潜めていた数人が苦痛の声を上げた。
ぽっかり空いた空間に、滔滔と流れる小川が出現した。
空間を無理矢理捻じ曲げ、そこへ新たな別次元を引っ張り出したのだ。
フィオランは驚きのあまり、口を開けっ放しである。
「飛び込みな」
「…………」
放心したまま身動きしないフィオランに舌打ちし、老婆は杖をひと回転させた。
とてつもない衝撃を受けて後方へ弾き飛ばされる。
瞬間、咄嗟に老婆の腕を掴もうと手を伸ばした。
枯れ木のような細い腕の感触を掌に感じて安堵する。
直後、透明な水の流れに体を飲み込まれ、同時に男の叫び声を聞いた。
「おのれが何者か知りたくば、ラダーンへ行け」
剣を振り回す男へ、杖で応戦する果敢な老婆。
その非現実的な映像を最後に、フィオランの意識は途絶えた。
~次作 「1-2 ならず者の巣立ち」 へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?