フェイ・エンダー/おわりびと㉑ 第三章 太古の記憶「3-4 狼の顎」
第三章 太古の記憶
3-4 狼の顎
( 前作 「 3-3 怪鳥ラミア② 」 のつづき )
翌朝、夜明けの刻を告げにやってきたオイスに起こされ、彼らは朝を迎えたことを知った。
フィオラン以外の三人は、こんな狭い穴倉にこれ以上長居はしたくないとばかりに、自ら率先して目隠しをし、素早く身支度をした。
蜂の巣のような迷路を先導するオイスは、一刻も早く彼らを追い出したがっているようだった。
恐らく人間を逗留させることに対して、姿を見せない他の仲間たちからの不満が抑えがたくなっているのだろうとフィオランは推察した。
それほどドワーフと人間の接触は禁忌とされているのだ。
昨夜の、オイスへ示したヴィーの気の遣いようからでも納得できる。
果てしなく歩き続けたようで、大して時間は経っていなかった。
暗い穴倉から突如として地上に抜け出て、太陽がまだ中天に差し掛かっていないことに気がつき、フィオランは驚いた。
「いつのまに地上に出たんだ……?」
暗いじめじめした横穴から一変して、空を覆いつくすほど大きい糸杉に取り囲まれていた。
洞窟に入る前と比べて、自然まで激変している。
目隠しをしたままの三人も、明るさと外気が肌に触れる感覚、音ですぐに気がついたようだった。
空気に混じる独特な匂いをひと嗅ぎして、エリサが驚きの声を上げた。
「……まさか、レンティアの杉? この匂い、レンティア杉よ。
信じられない……わたしたち、ラダーンの国境線まで来ているの?」
その言葉にフィオランはぎょっと振り返る。
メリュウ婆さんの言いつけ通り、生まれてこの方ラダーン付近には近寄ったこともないので、東方の自然生態には当然明るくない。
これがかの有名なラダーン杉かと感嘆する反面、それが目の前に広がっている異常性に思わず呻いた。
高原付近の山岳地帯から一日も経たずに東のラダーン国境まで辿りつけるなど、空を飛んで行ったとしてもあり得ないことだった。
ベヒルが思わず目隠しをむしり取ろうとした所、ドワーフの叱咤が飛んだ。
「誓いはまだ有効だよ。早まらないこった」
動きが固まり、しゃちほこばってベヒルは手をおろした。
他二人はさすがというべきか、許可が下りるまで何とか自制したようだった。この奇怪な状況から、知るべきではないドワーフの秘密を敏感に察知したのだ。
「おまえたちの通路まで歩かせてもらうとは、感謝の言葉もない。
……オイス、おまえは大丈夫か?」
気遣わしげなヴィーの視線を受けて、オイスは小豆型の眼を丸くした。
「なあに、わっしの無茶は今に始まったことじゃないのでなあ。仲間もよく心得てるさ」
要するに、人間には想像もつかない近道を、このドワーフたちは地底深く掘っているということだ。
恐らく、この古い種族は気の遠くなるような年月をかけて、世界中の地底を行き来できるほどの通路を掘り続けているのかもしれない。
それは網の目のごとく複雑に交差した一大帝国で、人間の眼から巧妙に隠されてきたのだろう。
想像に耽っていたフィオランはオイスと眼が合った。
「すっかり回復したようだなあ。あんな鉄泉に長湯するとんまはドワーフにもおらんというのに」
必死に思い出すまいとしていた出来事を蒸し返されて、フィオランは口元を引きつらせた。
昨夜、ここにいる面々に醜態を晒した記憶が実は少しあるのだ。
全裸でヴィーに担ぎ運ばれ、全裸で部屋に転がされているのがわかっても、手足どころか指一本動かせなかった。
やっと身動きできるまでに回復した時には、腰布一枚という姿でベヒルに膝枕をされいていた。
屈辱のあまり、激しく落ち込んだことはいうまでもない。
「あんたと話していると俺の婆さんに会いたくなっちまうぜ。メリュジーヌという元気な婆さんだが、あんたとは双子のようによく似ているよ。もっともあっちの方が皮肉は強烈だったけどな」
フィオランなりの精一杯の嫌味だったのだが、オイスは小さな黒い眼をきらりと光らせてとんでもないことを言った。
「ほほう、そいつは間違いなくわっしの女房だな。出て行ったきり、とんと姿を見てないが。今頃どこでどうしているやら」
あまりにもさらりと言われたので、相槌を打って危うく聞き流すところだった。
目を剥き口をあんぐりと開けるフィオランの横で、ヴィーが苦笑して昔なじみの小びとを諫めた。
「オイス」
人の悪いドワーフはにやりと肩を竦めて、元来た道を戻り始めた。
「ちょ、ちょっと待て! 今のはどういう意味だ? 待ってくれ!」
慌ててその小さな身体を捕まえようと腕を伸ばしたが、緑色の服を着た毛むくじゃらの身体が杉の木と一体化するように消えていく方が早かった。
勢い余って太い幹に衝突しそうになって、フィオランは踏鞴を踏んだ。
「おお、言うのを忘れておったわい。あのひょろひょろした連中は川の下流で姿を消したそうだ。用心せいよ」
杉の根元から嗄れ声がくぐもって響いてきた。
内容にヴィーが眉を顰めたが、フィオランはそれどころではない。
どこかに隠し扉でもあるのかとしばらく幹を掌でまさぐった後、血相を変えてヴィーへ詰め寄った。
「あんたは何か知っているのか? あいつが言ったことは本当なのか?」
「まったく悪戯好きなやつだ」
ヴィーは溜息をつき、フィオランは髪の毛をむしらんばかりに叫んだ。
「悪戯っていう次元か? とんでもない不意打ちを食らわせておいて、さっさとずらかりやがって! 根性悪にもほどがあるぜ! あれはただの法螺なのか、それとも本当の事なのか?」
「ドワーフから真実を聞き出すことは至難の業といわれている」
「答えになってねえ!」
「あのう………」
揉めている二人の横からベヒルがおずおずと声をかけてきた。
フィオランが凄まじい形相を振り向ける。
「なんだ!」
「もう、取ってもいいかな? これ。それに、あまりここに長居しない方がよさそうだよ」
不安が入り混じった声に、フィオランのカッカとした気が鎮まった。
ベヒルの背後には、すでに目隠しを外したエリサが緊張した顔つきでこちらを見ている。
「そのお坊さんの言う通りよ。道を探して早くこの森から出た方がいいわ」
エリサがある先を指差した。
目を凝らして指した先を見つめると、杉が数本薙ぎ倒されたように横たわり、倒れた根元から湯気がもくもくと上がっていた。
いつの間にいなくなっていたのか、左手の木陰からアーネスが姿を現した。
それも一人ではなかった。背後に四、五人の家族らしき集団を連れていた。
疑問の色を浮かべる視線に答えて、アーネスは近寄るなり言った。
「近郊の村から逃げてきた人たちだ。タルル山から噴煙が上がったらしい」
緊張の面持ちで述べるアーネスの後ろでは、子供も混じったひと家族が不安そうに身を寄せ合ってこちらを窺っている。
「逃げるのなら、この森は危険じゃなくて? 子供を連れているのならなおのことよ。なぜ街道を行かなかったの?」
エリサがとんでもないといった風に問いかけた。
「この森にはもう獣はいない。ひと月も前に、鳥も狼もすべて姿を消したそうだ」
「け、獣たちは人間より危険に敏感でさあ。あたしらの村からも一匹残らず逃げていっちまったです」
農夫らしき一家の主がおずおずと口を添えてきた。
そう言っている間に、地面が細かく揺れ出した。子供が悲鳴を上げて、母親のスカートへしがみついた。
生まれて初めて地震を体感したベヒルも、真っ青な顔をしてフィオランへしがみついた。
慌てふためいた農夫は言った。
「動物たちがいなくなってから、この森のあちこちに熱湯が湧き出るようになっちまった。あたしらの村にもだ。恐ろしくて、とてもじゃないが居られない。この森を抜けた方が、隣国のセイリアへ早く辿り着けるでさあ」
農夫は頭を下げ、家族を急き立てて森の中へ消えていった。
取り残された彼らは暗然たる気持ちになった。
よりにもよって、こんな危険地帯へ放り出すとは、ドワーフという生き物は底意地が悪い。
ヴィー以外の全員の思うところだった。
「人間の尺度で彼らを判断するのは正しいことではない。その逆も然り。
彼らを恨むのは見当違いというものだ」
ヴィーに穏やかに窘められ、ベヒルはおろか二人のラダーン貴族まで顔を赤らめた。
九死に一生を得た事実を片隅に追いやる考えだったと、素直に恥じたのだ。
「距離からして、逃げた狼たちはまだ遠い。日の入り前に隊商宿へ辿り着ける猶予は十分にある」
「隊商宿って……まさか、あなた方角がわかるの?」
長身の麗人へ、エリサは驚いてつい尋ねた。
それまで、フィオランの時以上に警戒して、ただの一度も近寄ろうとしなかった相手だった。
天を衝く勢いで聳える大杉の森。
成人した男が十人手を繋ぎ合わせたほどの幹を持つ巨木が大半を占め、ラダーン王国の西側を覆うように伸びる大森林地帯。
匂いよし、材質よし、硬さよしと三拍子そろったこの杉はラダーン杉と呼ばれ、国を代表する輸出品である。
しかし、深すぎる森林は空を隠して方角を狂わせ、常に夕暮れ時のような暗さのため、人間から時間間隔も奪う。
森を熟知する樵夫でさえ、森の奥深くへ迷い込んでしまったら方角を見失い、遭難するほどだった。
その先には狼の顎が待ち受けている。それが遭難者の末路だ。
そんな恐ろしい森の、よりにもよってど真ん中に放り出されて、安全な街道にある隊商宿の位置がわかるというのだ。
これに驚かないラダーン人はいないだろう。
先ほどの農夫一家は無事にセイリアまで辿り着けるのか、黙って見送ってしまい、エリサは気がかりだった。
「方位磁石を持っているのだとしたら無駄よ。この森はどういうわけか、磁石が時々狂ってとんでもない方向を指し示してしまうの。森の麓に住む人間はここを魔の森と呼んでいるほどよ。当てにするのは危険だわ」
方位がわかったと言っているのは磁石を見て判断したせいだとエリサがつけた見当は、大きく外れた。
麗人は両の掌をエリサに見せ、道具を持っていないことを示してからこういった。
「ここは大陸の地層がぶつかり合ってできた山岳森林帯だ。東と西のそれぞれの性質の違った地層が接合した部分は磁場という特殊な空間を作り出す。
磁石が効かないのはそのためだ。彼らドワーフたちがこれより東へ坑道を伸ばすのを諦めたのもそれが理由のひとつでもある。非常に硬い岩盤があなた方の国を分厚く覆ってしまっているそうだ」
傍らでじっと耳を傾けていたアーネスが感嘆の色を浮かべてヴィーを見つめた。彼は貴族でありながら、こういった学問的な話は寝食を忘れるほど好きなのだった。
だがエリサはアーネスよりずっと現実的な性格なので、初対面の人間のいうことを手放しで受け入れる気にはなれなかった。
「あなたは我が国の学者のような話し方をするのね。それも、ラダーンが誇るどんな高名な学者も知らない知識をたくさん持っていそう。殿下なら、興味を持たれるのでしょうけど」
最後は独り言のように呟いた。
「長く旅をしている分、塔に籠る彼らよりも自然に教わることが多いのだよ」
探りを入れるような挑戦的な態度のエリサへ、ヴィーは子供を扱うように柔らかく言い、一同を促した。
「さあ、慌てず急げ。逃げ遅れた獣がまだ残っていないとも限らない。怯えた背中を見せないことだ」
矛盾したことをさらりと言われ、一同大いに戸惑ったが、この謎めいた麗人を信頼した方が賢明だと誰もが悟っていた。
そもそもドワーフと旧知の仲のこの人物がいてくれたからこそ、こうやって自分たちが再び生きて地上に立つことができているのだから。
怯えるなと言われると、気にするあまり、余計怯えてしまうのが人間の弱さだ。その典型であるベヒルを庇ってやる格好になり、自然とフィオランが最後尾に回った。
太陽が中天を過ぎたのかどうかもわからない森の陰鬱な暗さに怯え、足の下で折れた枝の音に怯え、時折羽ばたく鳥の気配に怯える。
その頼りない後姿を何度激しく揺さぶってやりたいという衝動に駆られたことか。
あのドワーフの爆弾発言についてつらつらと思い巡らそうにも、目の前でこうもおかしな動きをされたのでは、気が散って考えに没頭できなかった。
少し落ち着け、と再度声をかけようとしたとき、驚くほど近くで獣の息遣いを耳にしたように感じた。
本能的に危険を察知し、肌がぞっと粟立った。
反射的に振り向いた瞬間、さっと視界を黒いものがかすめた。
それが何なのか確かめた時には、身体が殴り倒されたように吹っ飛び、胸と腹に寸鉄を押し付けられたような鋭い痛みが襲った。
視界が反転し、黒い大杉の天蓋が広がっている。身体が激しい上下運動に振り回され、そのたびに身体に牙が食い込む痛みにフィオランは気が遠くなりかけた。
自分の身体が巨大な狼の顎に咥えこまれたのだと気づいたときは、すでに森の奥へ運ばれつつあった。
遠くでベヒルの絶叫と自分を呼ぶエリサたちの叫び声が聞こえる。
狼どもは逃げていなかったのか?
集団で襲われたのだろうか。
だが、彼らにはヴィーがいる。
あの動物使いのヴィーならうまく切り抜けられるだろう。
フィオランは激しい振動によって堪えがたいほどの痛みに襲われ、痺れた頭でそう考えた。
自分は狼の巣に運ばれるのか。獣に食われて終わる一生。
まさかそんな最期を遂げるとは想像もしていなかったが、一応何かの役には立つのだ。
(まあ、いいか)
常人には到底理解不能な納得をして、フィオランは完全に意識を手放した。
ひどく生臭い息が顔にかかり、その不快な匂いに吐き気を催しながらフィオランは目を覚ました。
目の前に、自分の顔の倍以上はある狼の頭を認め、息を詰めて硬直した。
今まさに食われる瞬間かと、間の悪さを呪った。
だが、血走った目をした狼はその巨躯を小動もせず、じっと不動の姿勢で自分を見つめたままである。
その耳まで裂けた大きな口にさっきまで自分の身体が挟まれていたのだと思い出して、フィオランはぶるりと身体を震わせた。
「手荒い真似をしてしまったが、勘弁してもらおう。おまえがあまりにも強情なゆえ、やむにやまれぬ手段を取った」
頭の上から、忌々しい声が降ってきた。
突如沸き上がった強い嫌悪感が皮肉にもフィオランへ活力を与えた。
「その面を二度と見たくねえと天へ祈ったんだがな。あちらさんも、てめえにはうんざりしているらしい」
身動きしようとして、腹と胸に激痛が走った。服が破れて血が流れだしている。思ったより重傷のようだった。
「……これが手荒い真似って程度か? 俺を殺す気ならとっととやりやがれ」
土の上に横たわり、身動きのままならないフィオランの前へイアンが回り込んだ。
痩せたイアンが横に並ぶと、狼の尋常ならざる大きさがはっきりと確認できた。大の男二人分の全長という、とんでもない体躯。
これほどの巨躯を誇る狼は大陸中を探してもそうはおらず、背丈のあるフィオランを軽々と運べたわけであった。
巨大な万力のような顎で噛み殺されなかったのが不思議なくらいだった。
紙のように白い顔で睨み上げてくる眼を、イアンは一見何の感慨もなさそうな目つきで見下ろした。
「殺さぬよう細心の注意を払っている。最初から俺はおまえを丁重に迎えようとしていた。それを頑なに拒絶して、こうまでこじらせ、望まぬ危害を被る羽目になったのはおまえ自身が招いたことだ」
これを聞いて、フィオランのこめかみに青筋が浮いた。
「とことん話の通じねえ野郎だな。魔道士てえのは、てめえみたいに思い込みの激しい頭のイカレた奴しかいねえのか?」
この煽り文句もイアンは頭から無視をした。
「どちらにしても、おまえはラダーンへ行くことには変わりはない。
俺と共に来た方が、おまえにとっては遥かに実りが多いという事がすぐにわかるだろう。意地を張らずに身を委ねることだ。出血がひどくなるぞ」
「……だったら、早く手当てをしやがれ………」
怒りに目一杯いきんだせいで、視界が大きく回転しだした。
瞼が蝋で固められたかのように動かず、押し上げる力も入らなかった。
細かい星が散った瞼の裏に、ヴィーの白い顔を見たような気がした。
(あいつらに何かしやがったら、ただじゃおかねえからな)
渾身の捨て台詞は果たしてイアンの耳に届いたかどうか。
蚊の鳴くような呻き声を立てて、それきり動かなくなったフィオランを、暗い目つきでイアンは見下ろした。
藍色の刺青で彩られた口元が激しく歪み、言葉が吐き捨てられた。
「竜の目を持つ者がこんな奴だとはな」
なぜ、自分ではない――。
同じモーラの血を引きながら。
憎しみにも似た声を聞き、狼が切なげに長く尾を引き鳴いた。
フィオランに気づく余裕はなかったが、捕らわれた彼の傍にいたのはイアンただ一人だった。
~次作 第四章 血の絆 「4-1 死のはざま」 へつづく