俺のFIRE漂流記③(お仕事小説)
工程3 これ、蜘蛛の糸か?
1、コンビニって、出会いの場だわ
いかん。少し頭を冷やそう。これでは、コワーキングへ行っても呆然としたまま、1ミリも作業は進まない。途中現れたコンビニを見つけ、すぐさまアタマ鎮静化避難場所として飛び込んだ。
店舗より少し離れた場内の端に、一台分スペースが空いている。バッグはせずにフロントから滑り込むように侵入しようとした。そこで、右側……つまり、俺が座る運転席側から見て右手に停まる車の主とバッチリ目が合った。よくあることだ。スッと視線を外して車を停車させることに意識を向けたのだが、そいつはなぜか俺を凝視したままだ。吸い付くように、しかも途中で笑いをやめたような微妙な表情で、ずっと俺を追ってくる。
知り合いか? ぱっと見、すぐに思い出せない。運転席から降りると、そいつもすぐさま待ち構えてたように近寄ってきた。
「亘さん……ですよね?」
そうですが、と言いかけて、首を傾げる。グレーの仕立てのよさそうなジャケットに白のジーンズ、ピカピカに磨き上げられたローファー。健康的に日に焼けた肌とよく手入れされたパーマヘア。うちの社長と同じ匂いがする。レクサスのセダンISを乗り回すヤツなど、俺の知り合いにはいないんだが……。だが、顔に見覚えがある。
「え、わからないですか? 俺、加勢ですよ。ハマショウの加勢勇人。お久しぶりですね」
白い歯を剥きだして笑う顔を、今度は俺が凝視した。不覚にも、あっと声を上げてしまう。相手のあまりの変わりように唖然とした。俺が知っている加勢勇人というヤツは、まだ20代だというのに人生に絶望をしたような顔をした疲れ切った人間だった。こいつはノマドランドと取引をしている大手の材料問屋の営業マンで、ちょうど1年前に「過労死してしまうから」という理由で辞めていったのだ。
何を話しかけても笑顔のなかった人間が、今は溌剌とした顔で笑っている。おまけに、まだ若いくせにだらしのなかった体型が、目を見張るほどスマートになっていた。これは広告で流れているあれか? なんとかザップとかいう効果か?
「加勢くん……か。いや、ちょっとすぐわからなかったよ。失礼したね」
いくらなんでも変わりすぎだろう。一体こいつに何があった?
「いやあ、前の自分を知ってる人全員からそう言われます」
加勢は照れて頭を掻きながら笑った。もう日が暮れて辺りは薄暗いというのに、爽やかな笑顔が目に眩しい。
「すごく元気そうだから俺も嬉しいよ」
正直な思いをそのまま伝えたら、加勢は一瞬目を見張り、そして嬉しそうに破顔した。
「亘さん、やっぱいいっすわー」
「なにが?」
「久しぶりに俺と会って皆驚くけど、そんな風に『嬉しい』と嬉しそうに言ってくれる人いないから」
そう言う加勢の顔がさっきから眩しい。何かこう、光り輝いているのだ。
「亘さんってクールであんまり喋らないのに、たまにストレート投げてくるんですよね。だから俺も、偶然とはいえ、こうやって会えて嬉しいです」
照れるではないか。こんなに素直に表現してくる奴だったか? あまりの激変に、さっきから驚愕しっぱなしだ。それに性格ばかりか、生活のグレードまで上がっているように見える。
「なんだか充実してるようだな。加勢くん、今何してるの?」
そこが大いに気になったので、格好つけて聞いてみた。要するに、余裕のある自然体で。加勢の細い目が、よくぞ聞いてくれたとばかりに輝きだした。
「俺、今株やってるんですよ。トレーダーってやつです。前から少し手を出してたんですけど、その道の有名人と知り合って少し手ほどきを受けたら思った以上にうまくいっちゃって。どうやらトレーダーに向いてるみたいなんで、今はそれで食ってます」
「へえ……すごいな」
株。未知の世界だ。FXをやっていたとはいえ、運用会社のお任せパッケージにただ入金していただけだから、経験には入らず知識もない。株で成功している人間を身近で初めて見たので、素直に感心した。
「なんていうか……価値観どころか、世界観がまるで変わりましたよ。やっぱ金があると自由になるんですよね、色々と」
その言葉を聞いて、胸の中がちりりとした。決して心地よくはない感覚だった。俺の表情に何を読み取ったのか、加瀬はジャケットの内ポケットから名刺入れを出して1枚手渡してきた。
「亘さん、もしよかったら明日会いませんか? 土曜休みっすよね? もっと色々話したいし、実は俺の師匠のセミナーがちょうど明日開催されるんですよ」
「師匠?」
加瀬は力強く頷いた。
「俺の投資の師匠で凄い人なんで! 亘さん、その人に会ったら絶対人生変わりますよ」
胡散臭い。これは何かの勧誘か? 参加したら情報商材を買わされるとか、高級会員制サロンに入会させられるとか。
「ただ会員限定だから、飛び入りで参加してもいいか聞いてみないとわからないんで…」
俺に断られるという可能性は念頭にないらしく、加勢はどんどん話を進めていく。勢いでLINEの交換をし、詳しいことは後で連絡をくれるということになった。
「たぶんOKのはずだから、気乗りしたら来てくださいよ」
加勢はそのまま白い歯が輝く余韻を残して、青いレクサスISと共に爽やかに去っていった。1年足らずで人はああも変わるものなのか。ぽかんと見送り、我に返る。加勢のお陰で、ある意味気持ちの切り替えはできたようだ。そのまま予約したコワスペースへと向かったが、その時点ではどうやって断ろうか、くらいにしか考えていなかった。
2、one day タダビト勉強会
「ねえ、お父さん。本当にオレまで来て大丈夫なの? 場違いじゃない?」
柔道が不安そうに俺の後をついてくる。さっきまで、街中のスポーツ専門店で買い物をして上機嫌になっていたところを、突然足を踏み入れたこともない未知の世界に連れてこられたのだから、そりゃ不安にもなるだろう。
すまん。でも一応どこへ行くのかは説明したぞ。
「お金の勉強をする集まりらしいぞ。子供も大歓迎だってさ。特におまえみたいな中坊は」
「なんで大歓迎なのか、ワケわかんないだけど」
昨夜、加勢から参加OKのLINEが来た。俺は柔道と服を買いに行く約束をしていたのをすっかり忘れていた。もちろん行くつもりはなかった。なかったのだが会場だという場所が街中で、しかも買い物場所であるスポーツ用品店の目と鼻の先という近さということに気がついた。子連れはさすがに難しいだろうと思い、伝えてみると、なんと構わないという返事が返ってきた。その間口の広さに少し興味を持った。
そして、息子と服を選びながら、昨日の加勢の様子を思い返した。一夜明けてもなお、昔、取引先で表面的な付き合いをしただけの相手に、俺はなぜこんなにも引っ掛かっているのか。奴の変貌ぶりに。
だめだ、気になって仕方がない。奴のことを頭に占めたまま、せっかくの週末が終わるのか? そう思うとブルッと身震いがでた。で、息子を誘った。場所的に誘いやすかったという理由もあった。
会場となっている場所は、個人経営のブックカフェという変わったところだった。
店内はミッドセンチュリースタイルという、日本式にいうと昭和レトロチックな空間で統一されていた。オレンジと赤と緑・黄の色彩に溢れた型式の古い家具、照明、置物。プラスチックとガラスと鉄が混在し、それらを引き立てるように造りつけの本棚が建物内部の壁面と、各空間の仕切りとなってデザインされている。適度な所へ観葉植物がうまく配置されており、オープンな席もあれば半隔離されている席も多くあり、ちらほら散らばっている客は、めいめいが居心地よさげに席に納まって本を読んでいた。
店の奥に進むと、キッチン兼カフェ用カウンターがあり、中にいる店主らしき人物が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。one day タダビト勉強会の方ですか?」
「はい。加勢さんの紹介で……」
背後でタダビト……と反復する息子の声を聞きながら答えた。
「そちらからどうぞお入りください。お入りになる前にお飲み物のご注文も承ります」
「あ、じゃあ、このキリマンジャロと」
「オレ、このホワイトラズベリーフラペチーノってやつでお願いします」
それまでおずおずとしていた柔道が、ここぞとばかりに俺の腕の間からメニューをチラ見して、素早く注文した。
会場には、カウンターの横にある格子のガラスドアから入るようだ。アンティーク調の金色のドアノブを捻って中へと入った。
室内には5人ほど人がいた。そのうち女性は2人で、あとは全員男。意外にも年齢層の幅は広かった。ここにも本棚はあったが、本がメインというより、小規模サロンといった椅子やコーヒーテーブルの配置だった。皆で談笑していたらしく、和やかな雰囲気で自然に会話が途切れ、全員俺たちに注目した。
「亘さん! 来てくれてたんですね!」
加瀬が嬉しそうに飛び出してきた。
「こんな途中からお邪魔してしまって申し訳ない」
ひと言詫びを入れいている間に、加勢のすぐ後から男が近づいてきた。背が高く、185cmある俺と大して変わらない。30代半ばくらいのシンプルな服装をした、ぱっと見好印象の人物で、俺が口を開くより先に彼の方から声をかけてきた。
「はじめまして。杵柄嘉臣といいます。ようこそいらっしゃいました」
「亘吾郎です。はじめまして。今日はお招きありがとうございます。息子まで快く受け入れてくださって正直驚きました」
俺がそう言うと、杵柄と名乗った彼はふっと柔らかく笑った。
「僕たちはティーンエイジャーは大歓迎なんですよ。お金の勉強は学校では教えてくれないので、こんな風に少しでも伝えることができるのは喜ばしいことです」
そして少し身を屈めるように、俺の背後で様子を窺っている柔道へ話しかけた。
「こういうお店は初めてかな?」
「あ、は、はい。なんか異世界に来たって感じです」
自分に直接話しかけられてへどもどしながらも、何とか言葉を返しているのでほっとした。
「異世界?」
「は、はい。タイムスリップして外国の大人の図書館に来たって感じです」
中学生男児の発言に周りの大人たちが笑い声をあげた。杵柄嘉臣。様子からして恐らくこの集団のかしら的存在なのだろう、彼は更ににっこりとした。細面の少し寂しげな顔立ちが明るく華やいだ。
「素敵な感想をありがとう。KINEカフェというんだけど、ここは僕のお店なんだよ。君のお名前は?」
「柔道です。日本国技の柔道という字で」
「それはいい名前だね」
本当にと賛同の声が上がる中、杵柄嘉臣は上体を起こしながら俺の方へも顔を向けながらそう褒めた。
「今日はセミナーといっても、学校の授業みたいに一人が教師になって一方的に講義をする形式ではないんです。何というんですか……昔、農村や地方の集落には普通にあった『講』みたいなやり方で、それぞれ日常の出来事や、今取り組んでいることの成果発表をしたり、思っていることや悩んでいることを愚痴として聞いてもらったりするなんてこともあります。もちろん、真剣に株や資産形成や経済について勉強することもします」
「ごくたまにね」
60代くらいの初老の男性が合いの手を入れてきた。
「自由なんですね」
ガチガチのマネーロンダリングセミナーなのかと思っていたので、俺も素直な感想が出た。
「はい。発想と意見をプチパブリックの場で自由に開放する、1日限りの勉強会。不定期に開いています。時間も特にいつまでとは設けていません。皆、都合のいい時に来て、好きな時間に帰る。亘さんもどうぞ気楽に過ごしていってください。ここではどんな話でも基本的にはOKです。柔道くんも、会話も読書も好きに過ごしてね」
会の決まり事をゆるく説明された後、俺は他のメンバーたちと挨拶を交わした。メンバーたちの自己紹介を兼ねたエピソードを聞いていく内に、気がつけばいつの間にやら、話は今の物価高と金利値上げをお題に盛り上がっていた。
「お金の価値がどんどん下がっていくと教えてもらって投資始めたけどさ、この上がりようは只事じゃないよね。このペースでいったら、私の到達積立金を上回るんじゃないかと思って気が気じゃないのよう」
「そうねえ、どれだけ計画的に運用していても漠然と不安はあるわよねえ。ましてや、ゆっちゃんはまだまだ老後まで30年以上はあるもんねえ」
二人の女性が口々に不安を漏らし、頷き合っている。一人はゆっちゃんこと由利あけみ。31歳のスポーツジム勤務の健康女子。もう一人は太美昌子、54歳の主婦で週4のパートをフルタイム勤務しているとのこと。今日は参加していないが、あと一人女性の会員がいるらしい。彼女たちの不安には、62歳の須藤武雄さんが引き受けたようだ。
「俺は初めてまだ4年足らずだからドルコスト平均法の恩恵は受けられないけど、ゆっちゃんは希望大きいんでないの?」
「だって額が少ないもの。なんたって入金額がモノを言うじゃない。私みたいな薄給は少ないお金をコツコツ地道に投資し続けるしかないんだよう。びっくりするよ、私の毎月の額聞いたら」
「わかるわあ。うちも同じ。毎月定額をお給料から天引きにした方が強制的に資産を増やせるからとはいわれても、そうはいかない月もあるしねえ」
「そうなのぅ。わかってくれてるね、昌子さん」
「だからといって、トレードに手を出す勇気もないしねえ」
ふっくらとしたほっぺたに柔らかそうな肉厚の掌をあてて、主婦昌子は溜息をついた。大福餅を連想させる真っ白な肌に血色のよい赤い唇。黒目が大きい潤んだ瞳。艶々のワカメのような豊かな髪。俺の表現もなんだが、なんだか妙に艶めかしい中年女性だ。彼女たちはそう愚痴をこぼしながらも、俺がびっくりするくらい、実は資産を貯めているということを最初の自己紹介で聞いて知っている。
つまり、このコミュニティでの会話は、一見ごく普通の庶民レベルのお悩みが交わされてはいるが、実は資産構築の意識の高さという、根本的な人生設計レベルが底上げされた人たちの会話である。そこを理解していないと惑わされる。間違っても、うんうん自分と同じ~よかった! などと単純に同調してしまってはいけない。同調は安心をもたらし、勝手に一体感を抱いてしまう。皆同じなのだから自分が苦しいのも仕方がないのだ、という逃げが無意識に思考を支配していくのだ。
では、俺は? 俺のレベルはどうなんだ? 今まで深く考えてこなかった人生への逃げというツケが、この場に足を踏み入れてからじわじわと俺を取り囲み始めてきた。
「その点、私たちと逆を行っているのが加勢さんよね」
由利ちゃんが俺の隣りにいる加勢へ話を振った。さっきの自己紹介コーナーでは、話が脱線して加勢まで順番が回ってこなかったので、話されなかった彼の身の上話に俺は大きな期待をこめた。加勢は自分の番が回ってきたので嬉しそうだ。
「もちろん、俺だって積立くらいはしてますよ。基本ですから」
「トレーダーなんですよ、この人」
須藤のおじさんが教えてくれた。
「しかも、始めて1年も経たないうちにあっという間に資産を積み上げちゃったという強者でね。もうこれはある種の才能だよね。真似なんかできない、できない」
「必死でしたからね、生きるのに。それしかなかったんで、死にものぐるいで。その分、勉強も研究もしましたから。それが実になってくれたわけです」
謙虚に答えているが、目標をひとまず達成した自信を隠せず、鼻の穴が膨らんでいる。俺はそこから目を離せず、機械的に相槌を打った。
「いやいや、短期トレードはちょっと勉強したくらいじゃ、なかなか成果は出せないよ。俺は勉強したけど無理だった」
須藤のおじさんが悔しそうに言い、うんうん怖いよねと由利ちゃんが同調している。
「須藤さんには不向きだ、ということだけですよ」
それまで少し離れた場所で会話を見守っていた杵柄嘉臣が、ここで輪に入ってきた。実に自然体な動きで由利ちゃんと主婦昌子の間の席に納まったので、そのスマートな動作を参考にしようと心のメモに書き留めた。
「短期トレードは性格も影響しますから。トレードに才能がもし必要なのだとすれば、それはある種の性格かなと僕は思っています」
「どんな性格ですか?」
興味が沸き、尋ねてみた。
「決める勇気。諦める勇気。守る勇気。全部、ただ勇気を持つことでしょう」
「はあ、そうですか」
俺も向いていなさそうだ。勇気がない意気地なし人生を今まで送ってきた気がする。
「それなら、亘さんも向いてますね!」
隣で張り切った声が上がった。驚いて、俺は加勢の顔をまじまじと見やった。少し平べったい鼻梁の穴がまだ膨らんだままだ。
「亘さんの仕事っぷりってそうじゃないですか。こんな無駄のない働き方する人みたことないと、俺いつもお手本にしてましたから。それによその会社の俺にまで色々と教えてくれたり、面倒見てくれたりもしてたし。効率のいい仕事をする人って、決断力があるという事ですよね? つまり、決断は勇気がないとできないかなと」
俺をそんな風に評価してくれていたとは気づかなかった。思っていたよりいいやつだったんだな、加勢よ。持ち上げられて、俺は少しいい気になってしまった。
「株って、勉強すればすぐできるものなんですか? 恥ずかしながら、投資については無知なので、学ぶ必要を感じてはいたんですが」
「勉強をすれば誰でも気軽に始められます。今は色々な情報が簡単に、それも無料で手に入りますから。ただ、正しい知識と判断も必要だと思っています」
俺の気軽な質問に、杵柄嘉臣は誠実な態度で返してきてくれた。
「加勢さんは会社勤めをされておらず、時間的にフリーだからデイトレードができる。須藤さんは現役時代にコツコツと貯めてきたお金と退職金があるから、配当金のよい銘柄に投資ができたり不動産経営が実現している。昌子さんはご主人と協力し合ってそこを目指してますよね」
主婦昌子の小さく頷く姿がなんとも可愛らしいな。杵柄嘉臣を挟んでその反対側では、由利ちゃんが次はたぶん自分の番だと察知し、得意気に背筋をぴんと正した。
「由利さんはコーストFIREといって、老後は配当金だけで悠々自適な生活を送るのを目標にしています。それは築き上げた資産を生活費のために取り崩さないということです。彼女の凄い所は、老後までの長い人生をただ労働するのではなく、自分のやりたいことをちゃんと見つけてそれを実現しようと動いていることです。なかなかできることではありません」
予感的中のうえ、べた褒めされて、由利ちゃんは蕩けそうなくらい顔を緩めて笑った。
「自分のジムを経営したくて。目標は来年の7月でーす!」
おおーと全員拍手をした。
「こうして皆さん、それぞれ自分が何を目指しているのか定めて、その上で自分に合った投資方法を勉強して見つけたんですよ。今の時流に流されて、手段から入ってしまうと苦しくなってしまうと思います。続かないばかりか、投資をマネーゲームだと誤解をして嫌悪したり、望まぬ借金をこさえてしまったなんていう悲劇も起こっています。それを防ぐために、このonedayタダビト勉強会があります。自分の考えや方向性がずれてきていないか、軌道修正が必要か、はたまた新しい違うやり方が必要か。他愛ない話をしながら意見交換をして、話を聞いてもらうのです」
「あたしは嘉臣さんによく怒られたなあ、最初。君はなにがしたいんですか? それは君自身の意見で、自分のやりたいことですか? って。泣きそうになっちゃった」
由利ちゃんがえへへと舌を出しながら回想する。
「でも、基本的に杵柄さんは指導はしないんですよね。たまに指摘するだけで」
「そう。その指摘がぐさーっと深く突き刺さるんだよ」
加勢と須藤のおじさんが次々と言葉を添えた。杵柄嘉臣は少し困った表情で曖昧に微笑んでいる。
「それはね、嘉臣さんが私たちに真摯に向き合ってくれているということなの。私たちそれがわかっているから、もう何年もずっとここに通い続けてるのよ。ここはね、私たちの心の避難所でもあるの。そして嘉臣さんは、そんな私たちの導師というところかしら」
「とんでもない。僕はただの個人経営者ですよ。証券会社に勤務していたから皆さんに知識を提供しているだけです。でも、この場所をそう思ってくださっているのは嬉しいですね。やり甲斐を感じます」
主婦昌子の称賛に杵柄嘉臣は目礼で返し、静かに礼を述べた。照れているのだろうが、たぶん感情表現が苦手なのだろう。顔を見ていてもわかりにくい。その流れで再び話が俺へと戻ってきた。
「亘さんは今日が初めてですし、今この場で無理に何かを見出だそうと焦らないでください。もうすでに何か考えはお持ちかもしれませんが、考えというものは、ある日突然、天からの啓示として降りてくるものでもなければ、雷に打たれたかのように突如閃くものでもありません。色々なものを日常見聞きしていくなかに、なんとなく感じ、気づいていくのだと思います。この場所が、その何かしらの気づきの一部になれれば幸いです。うまく活用してください」
俺をじっと見つめる杵柄嘉臣の目に吸い寄せられてしまった。男の目に見惚れるなんて……。自分でもびっくりだが、山奥で人知れずひっそりと流れる、小川の水面の煌めきを連想してしまった。木漏れ日が時折差し込んで、控えめにキラキラと透明な姿を現す小さな輝き。そして、彼の言葉が気持ちよく俺の中で響いた。
いつの間にか、俺の左隣に柔道が座っていた。談話の途中で、輪から離れ、隅で本を読んでいたのに。
「もちろん、柔道くんもね」
声をかけられて、柔道はこくりと頷いていた。
3、人間とは張り合う生き物
そこからなんと18時過ぎまで俺たちは談笑し、カフェを引き上げた。
柔道と二人でパーキングへ向かって歩いていると、後ろから加勢が追いついてきた。同じ方向らしいので、しばらく感想を言い合いながら、気持ちのいい夜風に当たった。
「これ、嘉臣さんに知られたらあまりいい顔されないんだけど……。実は俺、仮想通貨もやってるんですよね」
加勢は内緒話をするガキンチョのような顔をして打ち明けてきた。
「仮想通貨って、ビットコインとか?」
危ないんじゃないのか? 知識はないが、ネットニュースで翻弄されている人間の話題を目にする。
「そうです。まあ銘柄は他にもたくさんありますけどね。嘉臣さんにはたくさん教わって師匠と崇めてますが、正攻法で行きすぎるのが物足りなくなっちゃって……。俺、まだまだこんなものじゃないだろうって、もっと手広くやりたいんすよね」
「それで全部うまく回していけてるんならすごいじゃん。他に何をやってるんだ?」
「インデックスは基本で、信用取引と金とFXもやってます」
「本当にプロのトレーダーだな」
FXもやっているのか……。そこに敏感に反応してしまった。
「FXで最初に大きく稼げたんですよ。そこが大きかった。それを元手に短期トレードを始めていって一気に資産を築きました。今はデイトレードと仮想通貨にはまっています」
パーキングはもうすぐそこで、残照の中で徐々に強く光りだす繁華街のネオンに包まれて俺たちはいったん足を止めた。
「あの会社で働いていた俺はなんだったのかと今は不思議に思います。まったく無駄な時間を過ごしていたと、今では後悔しているくらいですよ。それでも早いうちに気づけてよかった。亘さん、会社に縛られて生きる人生ほど馬鹿馬鹿しい生き方はないですよ。能力がある人間ならなおさらだ。その能力は自分のためにこそ使うべきだ。会社のためにじゃない」
加勢は周囲の店の照明や行き交う人々へ向けていた視線を、俺へと向けてきた。その細い目は今は見開かれて、ギラギラと光っていた。
「亘さんも脱出すべきですよ、あんな世界からは。亘さんもたぶん稼げる人間だ」
「……思ってたんだけどよ、なんで俺に声かけてくれたの?」
偶然再会しただけなのに、どうしてここまで熱心に誘ってくれたのか。それがどうも腑に落ちなかった。加勢は少し黙っていたが、いい難そうにこう言った。
「失礼だったらすみません。亘さん、死にそうな顔してたんで」
死に………。見上げてくる柔道の視線が痛い。
「そんなひどい顔してたのか」
確かにあまりよくない精神状態だった自覚はある。しかしそれが丸見えだったのは恥ずかしすぎる……。
「以前の亘さんを知ってたから、なおさら気になったというか……。俺、ちょっとショックだったんですよ。それでつい誘ってしまって」
気に障ったのならすみません、と頭を掻きながら謝られてしまった。
「亘さんもやるなら、俺出来る限りサポートしますよ。なんでも言ってください」
力強く言い切る姿はなんとも頼もしい。本当に以前の業務に疲弊しきっていた頃と比べれば別人級だ。俺はやるともやらないともあえてはっきり言及はしなかった。
「疲れたか?」
帰りの車中で、助手席のシートを倒して寝そべる息子へ声をかけた。うとうとしているかと思いきや、柔道はぼんやりと流れる夜景を眺めていたようだった。
「大して。なんかどこか変わった人たちばかりで面白かった」
「そうだな、確かに」
それは間違いないな。一見ごく普通の人たちに見えるが、皆それぞれどこか独特な世界観を持っていた。人の輪にいて、他人の取り留めのない雑談を聞いて面白いと思ったのは、もしかしたら初めての経験かもしれない。
いや、それよりも。加勢に会ってからずっとチクチクとしているこの腹の底の沈殿物。あのサロンでもそれは感じて、正直に表へ出すこともできなかった澱み。そして、夜の散歩で交わした会話で俺はとうとう認めた。自分の中の嫉妬を。自分とのあまりの落差を見せつけられ、焦っている俺。
見つけたくはなかったが仕方がない。会社に縛られて馬鹿馬鹿しい、という加勢の言葉が木霊している。おまえに何がわかるという怒りと、このままじゃヤバイという危機感が俺を突き動かそうとしていた。
「またあそこに行ってみたいな」
柔道の言葉に俺はうわの空でいいんじゃないかと返事をした。
「お小遣いちょうだいね」
それにも生返事を返してしまった。
~次作、「工程4 FIREへの道、みえたり」へつづく