薔薇族(掌編小説)

自宅を出て、徒歩一分の距離に薔薇御殿がある。
土地三十坪はある広い庭はすべて薔薇という、それはそれは贅沢なお屋敷だ。
道路から覗き見する限りでは、品種は一般的なモダンローズから始まって、一重咲きのつる薔薇、原種であるワイルドローズと幅広く、このお宅の住人は余程の薔薇愛好家なのだろう。
なんと嬉しいことに私が大好きなイングリッシュローズまで育てられている。

そう、私は自他ともに認める大の薔薇好き。
三度の飯より好きなコーヒーさえ我慢して、高価な薔薇一本を買い求め、それをテーブルに飾って毎日眺めては癒されている。
そんな薔薇ラブな私が、二か月前まではこんな目と鼻ほどの距離に素敵な花園があることを全く知らなかった。

それは偶然見つけた。
犬の散歩でいつもは通らない道に迷い込んだ折の発見だった。
興奮した自分を抑えられず、自宅へ戻って犬を置いてから再び屋敷へと舞い戻った。
そして勇気を振り絞って、御殿へ突撃訪問。
夕刻時、お宅にいたのは中学生の息子さんだった。
私は顔を赤くしながら、
「よければ素敵なお庭を拝見させてもらえませんか」
とお願いすると、少年は驚きながらも快く許してくれた。
ご両親はまだ勤め先から帰っておらず、留守番をしているらしい。
少年に入り口を教えてもらい、玄関前に伸びるアプローチを左に逸れ、花園へ足を踏み入れた。

息をのんだ。しばし呼吸をするのも忘れた。
そこは、道路から覗き見する景色とはまったく違った世界が広がっていた。

大小の薔薇の垣根がミニチュア化された緑の小山となって外界を遮断している。
その幾つもの小山の隙間を埋め尽くす、様々な品種の薔薇たち。
アーケード状に連なった白いつる薔薇の足元から顔をたくさん覗かせるオールドローズたち。
丸いカップ状をしたこの薔薇は、重たい首をもたげて今にもこぼれ落ちそうで、何とも愛らしい。
中央に向かって淡いピンクがほんのりと色づいている様は、うっとりするほど気品にあふれている。

それら古風なオールドローズの群生の後ろには、モダンローズの代表格ラ・フランスが控えめに塊り、その横には花びらが剣先のように尖った大輪の一輪咲きがぴんと居住まいを正して咲いている。
これは切り花として市場に出回っている品種で、名はハイブリット・ティー。丈高く深紅色の豪華さが人気だ。

こうして一見無秩序で、美しいものが洪水のように溢れて広がっている混沌。
見入っている内に、私の中がざわざわとしてきた。
私の中にある想像の海。そこに眠る蛤が口を開け始める。

まさにここは、童話眠れる森そのもの。なんて無秩序な美しさなのだろう。
パーフェクト。
恥ずかしそうに俯きがちなピンクのイングリッシュローズ。
触れたら散ってしまいそうなほど華奢な花びらが日差しに透けている。
俯いた首が上げられ、内気な乙女の顔が現れた。
ほんのり桃色に上気した丸い顔。
陽光から身を隠すように、顔の周りにシフォンをふわふわと幾重にも纏わりつかせている。
風に乗って彼女から漂う清廉な色気。
強く主張することはないが、控えめな甘さが心地よい安らぎへと誘ってくれる。
彼女にぴったりの芳香だ。

胸一杯に彼女の香りを吸い込み、目を開けた。
おお、見える。
極上のタフタに身を包んだ深紅の貴婦人。
彼女の謎めいた視線を捉えようと必死にジェスチャーを送る青装束の古風な紳士。
風と光に戯れて飛び回る白絹を着た子供たち。
蜂蜜色の青年が、見事な橙色のグラデーションで彩られた娘と葉の上に腰掛け笑い合っている。
その足元では彼らを監督する緑の管理人たちが、これまた緑のステッキをつきながら空中を闊歩していく。

私は彼らの邪魔をしないよう息を詰め、身じろぎせず見守った。
こんな夢を見るのは子供の時以来だ。
封印していたのに、みずからの手で解いてしまった。

背後で土を踏みしめる音がした。
目の前に広がる幻想の世界はあっけなく消え去る。
「お気に召されましたか?」
落ち着いた声音が耳朶を打ち、私は慌てて振り向いた。
丸い眼鏡をかけ、卵のような体系をした小柄な男性が立っていた。
私はへどもどしながら頭を下げ、不躾に庭を拝見させてもらったお詫びとお礼をする。
御殿のご主人らしき男性は穏やかな笑顔を浮かべながら、ゆったりと私を見つめていた。

年齢不詳な人だ。
七十過ぎのような老成した落着きだが、三十代のような若々しさも感じられる。
眼鏡の奥で瞬く小さな瞳が悪戯っぽそうに輝き、それが子供の頃に読んだ絵本の小人にそっくりだと思った。
私は厚くお礼を言って退散した。
「このお庭がお好きならいつでもどうぞ。彼らも構わないようですよ」
去り際、ご主人がそう声をかけてきた。
妙な言い回しは「家族も」の言い間違いだろうと思った。

アプローチを抜け出る際、何となく後ろを振り返ってみた。
私は目を見張った。
小柄なご主人は黒い礼服に身を包み、彼を取り囲むかのように薔薇の精たちが私を見送ってくれていた。

私の中で小さく細く警報機が鳴っている。
封印していたのに、蛤が目覚めてしまった。
もう今までの生活には戻れない。


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