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俺のFIRE漂流記⑦(お仕事小説)


工程7 愛する人よ

1、残酷な女

「吾郎くん、お願いだから喧嘩しないでね」
 真美子にそう釘を刺されて、俺は今、総合病院のロビーで待機中だ。
今日は凛々子の退院日だ。俺も一緒に行っていいかとダメもとで頼んでみると、意外にも真美子はすんなり了承してくれた。俺がいた方が心強いのかもしれない。だが、この「喧嘩をしないで」は行きの車中で3回は言われている。まあ、無理もない。口止めされていたのを破って責められるのは、もはや耐えられないのだろう。 
 
 ほどなくして、二人の姿が現れた。凛々子は元気そうでほっとした。思ったよりずっと。この間、俺の家で別れたときよりずっと。
 真美子と一緒にスーツケースを引いて歩いてくる姿を見て、胸に迫るものがあった。平常心を保たなければ。突然現れた元夫が、目に涙を溜めて、震えながら待ち構えているのは、たぶんかなりうざったい。
 近づいてきたので、俺は出来る限りスマートに、すっと前に出てポーズをつけた。ところが、凛々子の奴、俯き加減で歩いているものだから、そのまま綺麗にスーツケースの弧を描いて俺を避けていきやがった。完全に通り過ぎて遠のいていく後姿に、俺は情けない声をあげてしまった。
「お、おい……ちょっと…………」
 真美子は気の毒そうな表情を浮かべて足を止めている。姉が付いてきていないことにようやく気がついて、凛々子が振り返った。俺の声も耳に届いていないってか。俺を確認して、軽く目を見張った凛々子は無表情で沈黙したままだった。あまりにも長いこと反応がないので、治療のせいで心神喪失でもしてしまっているのではないかと慌てた。

「真美ちゃんに無理言って連れてきてもらったんだ。……その、大丈夫か?」
「二人で一緒に来たの?」
 やっと喋った! 真美子が慌てて仲裁に入り、早口で妹へ弁明をしだしたが、凛々子は煩わしそうにかぶりを振って遮った。
「お姉ちゃん、とりあえず家に帰ろう。道すがら、聞くから」
 そう言って、俺に車のキーを手渡してきた。
「ジミーをお願い。私はお姉ちゃんと一緒に行くから」
 えっ? 一緒に乗って帰らないの? 
……うっかりしていたが、そういえばジムニーの姿が事務所にずっとなかったな。病院に置きっぱなしだったのか。急にその事実を思いだした。気を遣って、真美子が発言する。
「あたし、吾郎くんの車に乗せてもらってきたのよね」
 一瞬、三人で黙りこむ。俺は自分の車の鍵をしぶしぶ真美子へ渡した。凛々子のジムニーは、今やかなり珍しくなってしまったマニュアル車だから、真美子は運転できない。必然的に俺の車を真美子が運転し、凛々子を乗せていく形となった。俺は三人で一緒に帰るつもりでいたのに、なぜこうなる……。まあ、いいか。ジムニーを俺に任せたという事は、家に来てもいいという意味だろうから。
 
 オレンジ色のジミーは、三つある駐車場エリアの一番遠い所へ停めてあった。その更に隅っこに、異彩を放つ車がじっと主を待ち受けている。
 車内に乗り込み、キーを回してエンジンをかける。ブルブルと振動に合わせて揺れるキーホルダー。赤の塗料が剥げた小さなテレビ塔。鍛鉄という、覚えたての技術を試してみたくて造り上げた当時の俺の最高傑作。
 高校の実習室で教師に隠れてこっそり作業し、途中見つかって絞られたが、完成するまで見逃してくれた。市内の中心部にある大通公園に建つテレビ塔のミニチュアだ。建築物好きな凛々子に渡したくて造った。付き合うどころか、告白さえしていないのに、凛々子は受け取ってくれた。嬉しそうに。小さなテレビ塔を掌に乗せて、飽くことなく眺めていた。そうして俺たちは高校を卒業し、互いの人生からしばし姿を消したのだ。
 少し摩耗したのか、当初より丸みを帯びた塔の輪郭。これをまだ持ってくれていたのだ。ずっと。
 十一年間一緒に暮らしていたというのに、俺はちっとも気づかなかった。
 

「ジュドーにはなんていってあるの?」
 感嘆しながら家の中を見回している俺に、凛々子が尋ねてきた。いつまでも尻を落ち着けようとしない俺に痺れを切らしたらしい。ソファに座るように促された。
 なんせ、こうして家に上がるのは、二年前にこの家が完成した時以来なのだから、物珍しいのも仕方がない。なんといったって、現役売れっ子のインテリアデザイナーの自宅なのだ。いちリフォーム業者として、興味津々の物件だ。こんな状況なのに、無意識に、仕事がらみへと興味を持って行かれる俺はどこかおかしいのかもしれない。
 真美子はバタバタと荷物の片づけやら、家事やらで忙しく立ち回っている。

「何も言っていない。まだ……。いつ、どう言おうか考えている」
「あたしから話したい。だからゴロちゃんからは何も伝えないで」
 俺が言い終わらないうちに、凛々子の言葉が被さった。具合が悪いのだろうが、想定より早く俺に知られたことに、まだ少し動揺しているのかもしれない。
「おまえがそうしたいんなら、いいよ。それで」
「あの子の様子はどう?」
 少しほっとしたような表情を見せ、凛々子は次から次へと柔道のことばかり聞きたがった。
 あれ以来、学校には毎日ちゃんと登校していること、部活も塾も休まず続けているし、本人が「しばらく持ちそう」と言っているから、今は経過観察中だと説明した。担任の先生や部活の顧問とも、以前とは違って、今はしょっちゅう連絡を取り合っている。塾の先生たちともコミュニケーションを取り始めた。三日前に行われた授業参観と懇談会にも参加してきたと報告すると、凛々子は目を丸くした。
「あいつ、俺にお知らせのプリントを見せないで隠し持っていやがったんだ。先生と電話で話してなかったら気づかなかったぞ」
 そう事の顛末を話すと、嬉しそうに笑った。その様子を見て、ずっと気になっていたことを切り出すことにした。それは、魚の骨が喉にずっと引っ掛かったままでいたような疑問だった。

「……なあ。お義父さんたちにまで病気のこと、なんで隠していたんだ? 心配をかけたくないというのはわかるけど」

いや、聞きたいのはそこじゃないんだ。

「俺には病気のこと、その内ちゃんと話してくれていたのか?」
 自分の口で、ちゃんと。なんて答えるだろうか。当たり前じゃない、と言うに決まっている。だが、凛々子は沈黙したままだった。目を伏せ、一向に口を開こうとしない。久しぶりに見る化粧っ気のない素顔は、知らない女のように硬い表情で、よそよそしく感じられた。
 俺の身のうちがざわりと波立った。長いこと何か言ってくれることを待って、もう我慢も限界というところで凛々子はようやく口を開いた。

「わからない。言わなかったかもしれない」
 
この女は本当に俺に楔を打ちこむな。えもいわれぬ冷気が腹の底の底に溜まっていく。
「……それってなんだよ。一生黙っているつもりだったっていうことか? もう一人じゃどうにもならないくらい、治療の頻度も、入院の回数が増えても、俺には何も知らせないってことか? それで完治した後も俺にだけはずっと黙っているってことか?」
 気を鎮めてるつもりなのに、声が恐ろし気に響いてしまっている。アイランド式のキッチンにいる真美子が俺の様子に気づき、手を止めてこちらを窺っていた。
「……それって、なんだよ。別れたヤツにはいちいち言う必要がないってことか? 柔道の父親以外はもう自分の人生に関係ないからってことか?」
 嫌な言葉を吐いている。顔を顰めた凛々子に溜息をつかれた。
「相変わらず後ろ向きな発言ばっかり。聞かれたから答えただけだよ。どう受け止めたのかは知らないけど、そういうところだよ。ゴロちゃん」
 凛々子は疲れたようにソファに沈み込みながら言った。
「重いんだよ、とっても」
 
 コールド負け確定直前のバッターボックスで、ファウルで粘って粘って最後にピッチャーゴロでアウトを取られて、ジ・エンド。一縷の望みに縋って努力をして、結果惨敗。

「重い…………?」
「普段は何かあるとすぐにあたしに凭れかかってきて、答えを求めようとする。問題が起こったら、そうやって被害者思考でものを考える。俺がこんなんだから、こうだから……そんなのばっかり! そういうの依存だよ。はっきり言って、重い」
「……ちょっと、凛々子。いくらなんでも言い過ぎ」
 見かねた真美子が、家事の手を止めて間に入ってきた。凛々子へ、「あんたどうしちゃったの?」と、落ち着かせようとしている。確かに今日の凛々子は人が変わったように棘だらけだ。
 俺は無言で立ち上がり、リビングから出た。真美子の、俺を引き留める声が追ってくる。だが、俺は振り返らず家を後にした。これ以上あの場にいたら、何を言ってしまうかわからない。なによりも、俺の心を守らねば。
 あの残酷な女の言葉のひとつひとつ、表情や身振りのひとつひとつが俺をどうしようもなく傷つける。情けないが、これ以上対峙する気力が今はない。今年は大厄年というやつか? そんなものがあるとすればだが。
 
 精神的にかなりきつい波が次から次へとやってくる。少しでも早く遠くへ逃れたくてスピードを出した。午後からの仕事はギリ間に合い、ひどい精神状態だったが己に活を入れた。頭の中からすべてを追い出して、ただ目の前の仕事のことだけをロボットのように打ち込んだ。
 ああ、真美子を置いてきてしまったな。途中、思い出してLINEを開く。
今日はこのまま泊っていって、明日自分で帰るから心配ないと通知が来ていた。
 
 内装工事の手直しをしようとしゃがんだ拍子に、ズボンのポケットに入れたキーホルダーが内腿へメリッと食い込む。ああ、これも返しそびれたまま持って帰って来ちまったな。俺たちを繋いでいたのだろう、テレビ塔。
 数時間前にこれを発見して抱いた感情と、今これを眺めている感情。
 あまりのこの落差。もうジェットコースターだな。


2、凛々子の心

 3日後。預かりっぱなしの鍵を、意を決してやっと返しに来た。
 合鍵を持っているだろうからと自分に言い訳をして放っておいた。が、いつまでもそういうわけにもいかない。痛めつけられた気持ちが、ほんの少し回復してきた。行くのは今しかない。
 
 珍しく18時きっかりに仕事を切り上げて、しばらく近寄らないと決めていたあいつの家へと寄った。そうだ、顔を合わせる必要はないんだ。ポストへ入れて、LINEでひと言送りつけて、それでしまいだ。そうしよう。あいつだって、具合の悪い中、俺の顔など見たくもないだろうし。
 こういう臆病でいじけ癖のあるところにも嫌気がさしてるんだろうな、きっと。同時に、頭の片隅でもう一人の俺が小さく呟く。うるさいんだよ、黙っとけ。
 
 完全に陽が落ちているので、事務所の裏手にある平屋の辺りは街灯も届かず真っ暗だった。家に明かりが点いていない。寝るにはまだ早い時間なのに、寝ているのか? 
 緩やかな波型にカーブしたアプローチに足を踏み入れると、自動センサーで反応したスポット照明に照らされた。玄関ドアに近づき、ドアの袖パネルについたポストのカバーを開いたその時。ガチャンと物が割れる音を聞き取った。キーホルダーを落とし込む手を止めて、しばらく耳をそばだてた。鈍い、どすんという壁や床に当たる音がかすかに聞こえてくる。
 一瞬ためらったが、ポストに放り込むのはやめた。キーホルダーには家の鍵もついている。そのまま鍵穴に鍵を差し込み、俺は無断侵入をした。手探りでスイッチを探して照明を点ける。リビングへと抜ける通路の先に、あいつは蹲って倒れていた。

「凛々子!」
 なんだ、どうした、なんでこんなに? 仰天して駆け寄り、凛々子の身体に手をかけた。
 通路の隅に置いてある観葉植物が花台から落ちて、磁器が粉々に割れて飛び散っていた。
「どうした、具合が悪いのか? 大丈夫か? 救急車呼ぶか?」
 身体を横向きにさせると、苦しさに歪んだ顔が現れた。汗をびっしょり掻き、髪が色のない皮膚に張り付いている。今まで、見たことのない別人のような姿に俺は衝撃を受け、息を吞んだ。
「……なんで、いるの……勝手に…………」
「救急車呼ぶか?」
「いい。いらない」
 凛々子はきっぱりと拒否し、小さく唸り声をあげた。体を起こし、這うようにトイレへ向かおうとする。少し離れた先にあるトイレのドアが開きっぱなしだった。俺は凛々子を助け起こし、担ぐようにトイレまで連れて行ってやった。着くや否や、便器に被さるように嘔吐をする。何度も何度も、胃の中に何も入っていないだろうに、から嘔吐を苦しみながらし続ける。その背中を俺はできるだけそっと、力を籠めずそっとさすった。
 
 寝室には連れて行かず、リビングのソファで凛々子は眠っている。かなり座面の深いソファでクッション性もよいので、少し身体を横たえるには最適な場所だろう。ひとしきり嘔吐をしたら気分がよくなったらしい。凛々子を担ぎ上げてここまで移動し、寝室から毛布を持ってきて、一番居心地のよい一角へ寝かせた。
 背中をさすったとき、そして担ぎ上げたときに気づいたが、随分と痩せたようだ。元々スレンダーな体型だが、今の痩せ方は眉を顰めるほどだった。
 目を閉じた顔は久しぶりに見る。綺麗な顔立ちは変わらないが、目元が黒ずんで落ちくぼみ、ふっくらとしていた頬が肉が削げてシャープになっていた。治療が始まったとはいえ……。本当にステージⅡなのか? 最初に感じた疑問だった。

「ああ、柔道か? ごめん、俺急に用事が出来て少し帰るの遅くなるから。晩飯、真美子おばさんの所で食べてくれないか? さっき連絡しておいたから」
 リビングと少し距離のあるキッチンで柔道に小声で連絡をし、簡単な料理を始めた。勝手に冷蔵庫の中まで確認したが、もうこの際だ。とやかく言われても、勘弁してもらおう。
 柔道が好きだからと伝授された野菜のリゾット。具材は何でもいい。あるもので工夫するのが肝心なのだ、と凛々子から教わった。それは調味料でも、脇役具材でもなんでも。メインが野菜であればなんでもいいのだと。
 人参とブロッコリーと玉ねぎがあったので、それにウィンナーを加えることにした。グツグツと煮えている間に、真美子とのLINEを再開する。さっき、真美子へ柔道の晩飯を頼んだ時に、凛々子の様子も念のため伝えておいた。
 真美子によると、もう大丈夫だからしばらく来てくれなくてもいいと言われて以来、様子を見に訪れていなかったらしい。すぐに自分も駆けつけると言ってきたが、それはやめさせた。真美子だって、まだまだ手のかかるチビッ子どもがいるのだ。ここは俺が動くところだろう。
 真美子はかなり不安要素を感じているらしいが、不承不承でも任せてくれる気になったようだ。代わりに、明日の朝一番に様子を見に来ると言ってやり取りは終わった。
 癌のことは、眞島の両親にも、そして柔道にもまだ話していない。自分の両親にどのタイミングで話そうか、真美子は頭を悩ませている。たぶん、それも俺が立ち会うことになるんだろうな。
 
 リビングの方へ目を向けると、あてがっているクッションの山が動いている。目を覚ましたのだろう。出来上がったリゾットを皿に盛り、炭酸水と一緒に持っていった。

「食べられそうか? ひと口でもいいから胃に入れた方がいいぞ」
 プフという足のない丸型スツールをテーブル代わりに引き寄せて、トレイごと目の前に置いてやる。上半身を起こした凛々子は、湯気が立ち昇る皿をしばらくじっと見つめていたが、やがてスプーンを手に取ってゆっくりと食べ始めた。またひとつ、俺の中で小さな嬉しさが積み上がった。
「ちゃんとマスターしたんだね。完璧じゃん」
 声がしっかりしている。皿の中身もどんどん減っていく。俺は内心胸を撫でおろした。
「ああ、たくさん作ってきたからな。教わったことはこれだけじゃないし、他にもたくさんできるようになったぞ」
「そう……」
 それでも、半分以上残して皿をトレイへ戻した。
「ごめん……これで精一杯」
「いや、よく頑張って食べたな。充分充分」
 氷を入れたグラスをカランと鳴らしながら、凛々子は少しだけ炭酸水を飲んだ。炭酸水好きな凛々子は、具合が悪い時は特に好んでこれを飲む。
「ああ美味しい……。あたしの好きな物ばかり、覚えてるんだ」
「当たり前だろう。まだ耄碌する歳じゃねえぞ」
 具合が悪いのだから当たり前だが、元気のない凛々子を励まそうと、俺は努めて笑顔を作ってみせる。そんな俺に、凛々子は少し不安そうな目を向けてきた。
「ジュドーに話してないよね?」
「話してないよ。おまえから話すんだろ?」
 そんな簡単に話して聞かせる話でもない。できれば、俺だって伝えたくはない。それに、どうしても今あいつにまで知らせる必要があるのかとも思い始めていた。完治するのなら、あの自分のことで手一杯な柔道にあえて伝えることもないんじゃないか? 
 それを話そうと思っていた。だが……。俺は別の疑問が大きく頭をもたげだしてしまったんだ。

「凛々子よ……。おまえ、ステージⅡって本当か?」
 ポツリと投げかけた言葉に、さっとおもてをよぎった表情。まばたくあいまのことだったが、それでわかってしまった。あんなに頑張っていた笑みが消え失せてしまった。
「だからなんで……なんで隠すんだよ! 本当にわからねえヤツだな! 心底おまえが理解できない! ステージⅢか? まさかⅣって言わないよな? 悪く……そ、そんなに悪くなるまで俺どころか、真美子たちにまで隠すなんてどうかしてるぞ!」
「怒鳴らないで」
 
 俺の震える声に、低く震える声で返され、我に返った。気を落ち着かせなければ。息を吸って、立ち上がりかけたソファへ座り直した。

「ステージⅢだよ」
 観念したらしく、やっと正直に告げることにしたようだ。遅いんだよ、おまえは!
「余命は大体三年。治療が良好に進めばもっと伸びるでしょうって。逆に言えば、進行が進めば早まる可能性もあるので、あくまでも生存期間の中央値という目安だと言われたよ」
 余命宣告を受けていたのか!
 声を失っている俺に構わず、凛々子は堰を切ったように語り続ける。今までだんまりをきめこんでいやがったくせに!

「今年の春先に再発が見つかってね。まだ切除可能な時期だから、すぐ二回目の手術をしたんだよ。近くの腎臓に転移した小さな病巣を切って、一応成功したと言われた。体調も良くなってきたし、それで様子を見ていた。夏が終わって秋に差し掛かった頃に、急にまた具合が悪くなってきた。足が痺れて思うように動かないの。腰も釘でも打ち込まれたかのように痛い。それでまた検査入院して……わかったの。鳴りを潜めていただけで、しっかり進行していたということ。それで対症療法を始めたけど、あたしの身体ってどうも薬が合わないらしいの。色々な薬も試しているけど。簡単に言うと今はこれ以上進んでⅣに上がらないよう、何とか食い止めているところ」

「……本当に、簡単に言いやがるな…………」
 憎まれ口をたたくのがやっとだった。まさかと否定していた疑問が事実として目の前に叩きつけられちまった。悪夢でも見ているようだ。さっきから視界も頭の中も、グワングワンして現実味がない。自分自身でも、ここまで己を失うほどショック受けているのも衝撃だ。

「お父さんたちにはさすがにこれ以上隠しておけないから、今回の治療後に折を見て話すつもりでいた」
 そして、俺に鋭い眼を向けてきた。弱っているくせに、凄味を帯びた目つきだった。
「なんで言わなかったって? 治療して完治すると思っていたからだよ。手術だって成功したし、実際治療もうまくいっていた。死ぬかもしれない、なんて前提で親や家族にわざわざ話したいと思う? 隠していたんじゃなくて、言いたくなかったんだよ。死ぬかもしれない、なんて絶対に言葉に出して伝えたくなかった」
「そんな……そんな風に思ってたんなら、なおさら俺にだけは話してくれていてもよかったんじゃあ——」
 狼狽えた俺の言葉は遮られた。
「きみにはなおさら伝えられない」
 冷たく言い放たれて、カッと頭に血が上った。もっといいかたがあるんじゃねえのか?
「そんなに俺が信用できねえってのか!」
 つい怒鳴ってしまった俺を、凛々子は静かな表情で見据えてきた。
「あたしがどうしてゴロちゃんと別れようと決めたか、本当の理由知ってる?」
 なんだ、その不意打ち。脈絡もない。俺は一瞬鼻白んだ。
「今、関係あるのか? それが」
「ゴロちゃんは、あたしがいるとダメ人間になる。そしてあたしは、そんなゴロちゃんを最大限に甘やかしてしまう。ゴロちゃんはすごく強いものを持っているのに、あたしが傍にいると、安心が過ぎて成長しようとしない。
あたしというい存在は、せっかくいいものを持っているのに引き出す手伝いをするどころか、潰してダメにしてしまうんだとわかったからだよ」
 
 思いがけない発言だった。俺が凛々子に依存していると言いたいのか? 凭れかかっていると、この間罵倒された。否定しようと口を開いたが、なにも言えない。全部その通りだと俺の心が認めていた。
「いない方がいい。離れた方がいい。そういう関係だってある。その方がお互いのためになるのなら。それで別れた。それでもあたしを何かある度に頼っている。あたしが精神的に何度も突き放しても。……そんな人に、癌になってもうすぐ死にそうだなんて言えると思う?」
 凛々子の声が震えだした。もしかして、残酷なほど冷静に見えるのは、必死に自分を落ち着かせようと、感情の高ぶりを押さえつける努力の裏返しなのかもしれない。

「俺のためを思って、なんてことを言うのかよ」
 今頃になって。なんて勝手な言い草だ。
「おまえ何様だよ。どんだけ上から目線なんだよ。相手の成長を願ってさようならだなんて、嫌な女だな。女王様かよ」
 腹が立って仕方がないのに、声音がひっくり返ってしまう。
「あたしはゴロ―、きみに期待してるってことだよ! 昔も今もずっと。
わからない?」 
 俺は鈍いから、言葉ではっきり示してくれないとわからない。顔を歪めて叫ばれて、ハッとした。
「きみ、こんなものじゃないでしょ。もっとパワーも可能性もあるのに自分で縛り付けてるでしょ。あたしを精神的な逃げ道にしないで、しっかり立ってよ。あたしがいなくなったとしても、大丈夫だって言ってよ! あたしに凭れかかるのをいい加減やめて、安心させてよ!」
 涙を流しながら叫ばれ、俺は顔色を失った。離婚した時だって、泣き顔ひとつ見せなかったのに。そういう俺も、情けないことにコイツより先にとっくに泣いていた。
 俺をわざと突き放してたのか。ここ近年から最近、そしてつい数秒前に至るまでの流れのすべてに合点がいった。……遅すぎるが。これもひとつの、ある意味、愛情か? 
「わかりづらすぎるんだよ……!」
 掌で顔を拭ったが、目の前が涙で曇って凛々子の顔がよく見えない。
俺よりいつもずっと先を歩いている、達観した凛々子。精神的にも鋼のように逞しく、自立している本物と大人だと思っていたし、事実そうだった。
 だが、普通に心が折れることもある。知らなかっただけで、ずっと脆い部分もあったのだ。甘えたいし、凭れてしまいたいときだってもちろんあるだろう。それを俺は見ないふり、ガン無視をして一方的に凛々子へ保護者のような役割を押し付けてしまったのかもしれない。ガキすぎて泣けてきた。

「おまえ、俺が嫌いで別れたんじゃなかったんだな」
 それは、これを見たときに気づいたんだ。もしかしたら、と。
 リクライニングチェアから立ち上がって、ソファへ横たわる凛々子の傍へ行く。ポケットから取り出した鍵を、その細い手に握らせた。テレビ塔のキーホルダー。別れた相手がくれた思い出の品など、後生大事に身に着けないだろう。普通は。
「ベタベタしてて気持ちが悪い」
 掌に握りしめながら凛々子は文句を言う。涙と鼻水を拭いた手で掴んだからな。わざとじゃない。
「うるせえ」
 

 帰り道に久しぶりに陽水の曲を流した。お互い、心にわだかまっていた本音をある程度吐き出せたからだろうか。うまく言えないが、俺の中で何かが変わったような気がする。切り替わったというべきか。見つけたというべきか。しっくりくる言葉が見つからない。とにかく言えることは、凛々子の家への行きと帰りでは、俺の中のどこかが決定的に違っているということだった。


~次作 「工程8 こんなんだけど、いいよな」 へつづく


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