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フェイ・エンダー/おわりびと⑪ 第二章 力の発現「2-2 炎の使い手①」


第二章 力の発現

2-2 炎の使い手①

(前作 「2-1 地獄の一丁目②」 のつづき)

 川の流れは速く、幅も広かったが思ったより浅瀬で、川床に転がる岩などのお陰で対岸には楽に渡ることができた。
 ヴィーが言った通り、対岸に渡って半刻も歩かない内にぽっかりと口を開けた黒い穴が現れた。
 岩の絶壁にいびつな形で穿たれた大きな洞窟。縦長に伸びた入口に立つと、奥の暗闇からひんやりとした風が漂い、頬を撫でていった。

 フィオランはヴィーを支えながら中へと踏み込んだ。
 暗い穴倉に踏み込むには少し勇気が必要だったが、怖気づいていると気取られたくなくて、あえてずかずかと進んだ。

 完全に中まで入ると、外の陽光が明り取りとなって、それほど暗さが気にならない。それに入口の狭さに比べて、洞窟内はちょっとした広間のように大きな空間となっており、体を横たえるのに適した岩まで転がっている。
 その岩の一つにヴィーを座らせ、さっそく怪我の手当てに取り掛かった。

 外れた肩の関節を治す経験は過去にも一度あった。
 右腕を静かに持ち上げ、ゆっくりと探りながら関節を元に戻していく。その間、相当の痛みを感じているはずだが、ヴィーは眉根を寄せただけで呻き声一つ立てなかった。
 背筋を伸ばすと痛みが走るらしく、上半身をもどかしそうに動かしている。

「浅瀬とはいえ、川を渡ったのがよくなかったな」

 急な流れに足をすくわれそうになり、点在する岩にしがみつきながら横断したのだった。水流に抵抗して歩く運動は、崖下りに負けず劣らず全身の筋肉を総動員した。

「腫れを取って腕をしばらく固定すればよくなるはずだ。心配いらない」

 心配顔のフィオランへ、ヴィーはそう声をかけた。
 脱臼を治したせいか、少し前までの苦痛の翳りは消え、幾分楽な顔つきになっていた。

「『母の手』がまだ残っているはずだ。使い方は覚えているだろう?」

 フィオランは頷き、皮袋の中からひと掴みの薬草を取り出した。平らな石の上に乗せて、丹念に小石で潰し始める。
 数日前も、こうやってベヒルにこれを塗ってやったのだ。手荷物の中にあった清潔な布を切り裂き、汁が滴る薬草を擦りこむように乗せる。
それを湿布として患部に当ててやるのだ。

 用意が出来て、フィオランは患者へ向き直った。
 白い背中が剥きだされ、暗い洞窟の中で淡く浮かび上がっている。
 危うく、手に持っていた湿布を取り落としそうになった。
 首筋から肩へ流れる緩やかな線、柔らかそうな肉の付き方、ほっそりとした首、どれをとっても完璧な曲線を描き、非の打ち所がない。
 背中だけで、その場に縫い付けられるほど魅了されてしまった。

「乾いてしまうぞ。早く貼ってくれないか」

 促され、フィオランは我に返った。
 首筋からやっとの思いで視線をもぎ離す。我を忘れて釘付けになってしまったことに羞恥心を感じた。
 
 慎重に湿布を張った途端、ヴィーはすぐに服を着こんだ。
 無骨ななめし革に真珠のような肌が隠され、フィオランはそれを剥ぎ取ってしまいたい衝動に駆られた。
 ぴったりと首まで分厚い衣服で覆ってから、ヴィーはそんなフィオランをからかってきた。

「今、よからぬことを考えただろう」

「な、なに言ってやがる。何も考えてねえよ」

 心中を言い当てられ、フィオランは顔が赤くなった。柄にもなく赤面してさらに腹が立った。

「女だとわかって改めて納得しただけだ。ベヒルはあんたを男だと決めつけていたからな」

 この無礼な発言に、ヴィーは眼を丸くしただけだった。

「怒るなよ。あんたはその、じつにわかりにくいからな。マントで体型をすっぽり隠しているし、上背は俺とそう変わらない上、声も低い。その顔も綺麗だけどどっちつかずで――」
 
 聞いているうちに、ヴィーは笑い出した。
 おかしそうに声を出して笑うという珍しい姿に、フィオランは面食らう。
 頭にきすぎて、かえって爆笑しているのか?

「本当におまえは言葉を選ばないな」

 ひとしきり笑ってからの感想である。普通の女であれば激怒しているところだ。

「別に気を悪くしていないから安心しろ。大概の者はベヒルのような反応をする。わたしを女とみる人間の方が珍しい」

 と、これで終わらせてしまう。だが釈然としない。
 ベヒルの反応からして、見た目がどうこうという次元の問題ではないような気がするのだが……。
 あまりにも馬鹿馬鹿しく、あの時自分は軽くいなしてしまった。

 「あんた変わってるな…」

 よほど達観しているのか、性別を捨ててしまっているのか、若い女とは思えない反応に、フィオランはもうその話題に触れるのはやめた。

「おまえがわたしを女と見ていたことの方が驚いたぞ」

「道中、おれはずっと紳士的だっただろうが」

「そうか?」

 少し考えて、ヴィーはああと思い至ったようだった。

「離れて休んだり、用を足すのに隠れたり、快適な場所を譲ったりとあれはそういう気遣いか」

「具体的に言うなよ……」

 フィオランは顔を顰める。

「わたしを怖がっているのだとばかり思っていた」

 それもある。だが素直に認める気にはなれないので無言を通した。

 ヴィーが体を動かした拍子に、洞窟の奥から流れてきた風が顔に当たった。
 瞬きをした次の瞬間、絹糸のような黒髪が視界を横切り、はっと目を上げると薄闇で鈍く光る銀色の眼に見据えられた。

 思わず息を呑んだ。呼吸することも忘れて、その惹きつけられてやまない不可思議な瞳を覗き込んだ。
 見入っているうちに、胸の奥の奥を塞いでいた底蓋が開きそうな、わけのわからない感覚に陥った。
 フィオランは無意識に自分にブレーキをかけた。
 毎度映像を見てしまう時のような催眠状態からすぐに我を取り戻した。

 息がかかる距離に顔がある。
 少し頭を前へ押し出せば、いやほんの少し唇を突き出せばお互いが触れ合いそうなほどだった。
 かっと頬に血の気が上がった。

 フィオランは飛び上がりそうになるのを懸命に堪え、腰掛けている岩を尻ごと後ずさった。当然、岩から転げ落ちる。
 足を宙にあげて無様に転がりながら、奥手の若い娘のような反応をした自分に死にたくなった。

「なにをしているんだ?」

 艶っ気のない落ち着きすぎる声が頭上から降ってくる。すっかり動転したフィオランはしどろもどろになった。

「な、何って……いきなり迫ってきておいて、あんたこそ何するんだよ。唐突すぎるだろ。心の準備ってもんが」

 男にもあるんだと言いかけてやめた。ヴィーの不審そうな表情を見たせいだ。

「何を勘違いしている。肩と腕を固定してもらいたくて布を差し出しているのに、迫ってきたのはおまえの方じゃないか。まだ処置は終わってないんだ。さあ、やってくれ」

 差し出された黒い布を見て、フィオランは眠りから叩き起こされた人間のように放心し、こっくりと頷いた。
 触れてもいないのに自分で自分の映像を見ていたのか? 
 しかも阿呆のように唇を突き出して。
 
 黙って布を受け取り、右腕を脇へぴったりと折り曲げてきつく固定してやった。この場が暗いことに心から感謝する。大の男が耳たぶまで赤く染めている姿など目も当てられない。
 この女の前では実に恥ずかしい失態の連続で、頭を掻きむしりたくなった。

 手当てが終わり、気まずさからフィオランは食料の調達にと、さっさと洞窟を出て行った。
 日没が迫っていたが、そう時間もかからず川魚を四・五匹抱えて帰ってきた。ついでに脇には枯れ枝を束にして挟んでいる。
 その手際の良さをヴィーは手放しで褒めた。

「おまえの鮮やかな手並みには、旅が始まって以来毎度感心する」

「お褒めに預かり光栄至極」

 仏頂面でフィオランは応じる。まだ自分自身にふてくされているらしい。

「その食料を確保する能力はどうやって身に着けた? その若さで相当苦労したのだろう」

「ああ。俺の保護者が子供でも容赦なくこき使う鬼ババアでな。食べられるものなら何でも捕ってくるよう、徹底的に仕込まれたのさ」
 
 メリュウ婆さんとの生活が、もはや何年も前に過ぎ去った過去のように思える。永遠に逃げ続ける一生を送るのだと自暴自棄になっていた人生が、今は他人のもののように遠い。
 好きに道を選び始め、もしかしたら自分は今やっと大人になったのではないかと感じるほどだった。


~次作 「2-2 炎の使い手②」 へつづく

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