フェイ・エンダー/おわりびと㉕ 第四章 血の絆「4-3 女伯の恋」
第四章 血の絆
4-3 女伯の恋
(前作 「 4-2 破壊僧 」 のつづき )
次に目を覚ますと、若い女が枕元に付き添っていた。
貴婦人ともいうべき立派な身なりで、足のつま先から頭のてっぺんまで恐ろしく着飾っている。
薄い桃色の生地に細かな刺繍を施し、襟ぐりと袖にふんだんにレースをあしらったドレスは、その豊かな上半身の線を魅惑的に見せ、耳と首を飾る大粒の真珠が気品という効果を与えていた。
金髪を複雑に高く結い上げ、残った襟足の巻き毛を、大胆に開いた襟から量感豊かに覗く胸の谷間へ垂らしている。
その白い谷間から顔へと視線を行ったり来たり彷徨わせて、フィオランはこれが死後の世界かと考えた。
お迎えの天使がずいぶんと俗っぽく、人間臭い姿で現れるものだ。
それとも、男しての自分の生理的な欲求に応えてくれたのだろうか?
だとしたら調査不足だ。こんなお高くとまったドレスよりも、もっと生地の薄い布を身体に巻き付けた、見えそうで見えない西域風の衣装の方が好みなのに。この女にはその方がより煽情的で似合うはずだ。
いや、それよりも死へ旅立つ案内人なら、ヴィーこそが相応しい。
性別を超えた超然とした美貌で導かれるのなら、何の不満もない。
あの見事な肢体に、一切の装飾を排した女神像のような純白の衣装を着せれば、どんなに映えることだろう。
ぼんやりと胸の谷間に視線を這わせ考えていると、急に頭の向きを変えられて、女の怒ったような顔が目に飛び込んできた。
どこかで見たような顔だ。ようやく頭が働き出した。
「…………エリサか?」
問いかけた途端、ぴしゃりと冷たい布を顔面に当てられた。
眼を塞いだ布を片手でどけながら、フィオランはしげしげと貴婦人の顔を眺めやる。念入りに化粧を施された綺麗な顔が、誰だかわからなかったのだ。
少し吊り上がり気味のアーモンド型の眼。その澄んだ青い瞳。
機嫌の悪そうな澄ました表情は、紛れもなくあのエリサであった。
「やっと正気づいたようね」
感動的な再会を素っ気なくひと言で片付けられて、フィオランは苦笑した。
「色気がねえなあ。せっかくそんな眼に楽しい格好をしてるってのに。
それは俺へのサービスかい? だとしたら嬉しいねえ」
ニヤニヤと再び胸元を眺められて、エリサは自分の胸に両手を当て、憤然と身を引いた。
「相変わらず無礼な人ね。これは宮廷での略装よ。貴族の女へそんな不躾な視線を送るのは不作法だわ。いやらしい」
「最高にイカした女を賛美をこめて見つめるのは、男からの目一杯の賛辞なんだがな。
あんたはドレスを着た方がずっといい。よく似合ってるぜ」
エリサの澄ました顔が紅色に染まった。以前にも思ったが、つんけんした態度とは裏腹に根はかなり純情らしい。
困惑して立ち上がりかけたエリサの手をフィオランは素早く掴み、引き留めた。
「ちょっと待てよ。聞きたいことが山ほどあるんだぜ? 説明もなしに行っちまうなんてあんまりだろ」
「わたしもそう思っていたんだけど、あなたのその態度では話すどころか傍にも居づらいわ」
「こんな半死人みたいな有様で何ができるって」
きつい眼で睨まれて、フィオランは首を竦めた。
「わかったよ。紳士的にふるまうよう、努力するから座ってくれ」
それでも動こうとしないエリサの視線を辿る。
細い手首を掴んだ自分の手が、無意識にすべすべした肌の感触を確かめるように撫でていたのだ。
黙ってフィオランは手首を離し、己の罪深い手を毛布の中へと隠した。
「あなたはあのまま狼に攫われて、食い殺されてしまったのだと思っていたわ」
再び枕元に座り直したエリサが、フィオランと別れて以降の経緯を語りだした。
「あなたの後を追おうとしたのだけど、あの人に止められたの。
追えば、全員森の中で迷って狼の餌食になると。アーネスはあなたを見捨てることを頑として譲らなかったけど、結局従わざるを得なかったのよ。
そのまま、あの人に先導されて森を抜け出たわ。あの人はレンティアの森に住まうどんな樵夫よりもあの森に詳しいみたい。
ほとんど迷いもせず、ラダーンへ続く街道に出られたの。彼なら、例えあなたを追って森に迷ったとしても無事に生還できたんじゃないかしら」
ヴィーが後を追わなかったと聞いて、フィオランはあの時感じた違和感を思い出した。
生き物と交信する能力があるヴィーが、なぜ狼に襲われる心配をしていたのか。
そのうえ、攫われた自分の後を追おうともしなかった。
この理由がひどく気になった。
黙りこくって何も言わないフィオランへ、エリサは気遣わしげに声をかけた。
「………気分を害してしまったかしら? あなたを見殺しにしたも同然のことをしたのだから」
エリサの言葉に意識が戻り、フィオランは笑みを作った。
「いいや? 賢明な判断だったと思うぜ。俺でもそうしただろう。
結果、こうして奇跡的に生きてるしな」
先ほど、目が覚めて息をしていることに我ながらびっくりしたくらいだ。
狼に食われかけ、麻薬漬けにされ、胸と腹を切り裂かれても、なおこうして元気に喋っている。不自然なほど強靭な肉体になっている。
「他の奴らはどこにいるんだ?」
エリサは、二日かけてラダーンへと帰還を果たした後は、皆それぞれ本来の場所へと別れたと説明した。
ベヒルは任命を受けた王都内の自分の教区へ司祭として。エリサとアーネスはそのまま宮廷へ伺候し、ヴィーはいずこかへ姿を消したという。
「もうわかっているとは思うけど、ここは黒鳥宮と呼ばれるラダーンの宮殿よ。あなたの身は国王陛下によって無事保護された。その上、この場所は宮殿内でも奥宮に位置する王家の私的な区域。警備もより厳重だから安心していいわ」
エリサたちが再び宮廷へ伺候して三日目に、国王から極秘に呼び出され、死んだと思っていたフィオランに引き合わされたのだという。
国王は詳細は語らなかったが、何者かによって国王の寝室へ半死半生状態のフィオランが運び込まれたらしい。
国王は二人にフィオランの看護を命じ、専属の医者を一人付けた。
第二王子の存在をまだ公に知らしめるのは、時期尚早という判断からであった。
エリサは雨あられと質問が降ってくる覚悟で身構えていたが、寝台に横たわる病人は静かなものであった。
連日の薬漬けのせいで頬はげっそりとやつれ、目の下に大きな隈を作って、見るも憐れな有様だが、その緑色の眼は何かが燃えているように底光りしている。
じっと見つめていると目が離せなくなるほどの奇異な色を湛えており、森の中で別れて以来、この若者がどことなく変わってしまったような印象を受けた。
「何も聞かないのね」
フィオランには、はっきりと記憶が残っていた。
薬漬けで正気を失ってはいなかったのだ。ただ、その記憶をわざわざエリサに語る必要はないというだけのことだった。
自分をおぞましい儀式から助け出したのはメリュウ婆さんであった。
どういう手段でか、いまだに考えてもさっぱりわからないが、耳元で名を呼ばれて意識を向けた途端、石の中へ身体を引っ張り込まれた。
冷たい、骨まで染み渡る感覚は、思い出すたびに怖気が走るほど気色が悪いものだった。石の中をズブズブと体が通過するのを何ともいえない心地で耐え、気がつくと洞穴のような狭い空間に寝かされていた。
自分を覗き込む皺だらけの小憎らしい顔を見て呻き声をあげると、老婆は懐かしい隙間だらけの歯を剥いて笑ったのだった。
「なんちゅう体たらくだい。ちょっとは身を守れるくらい成長したかと思っていたのに」
懐かしい憎まれ口を久しぶりに聞いて、あれほど嬉しく思ったことはなかった。
「話は後にしな。さっさとずらかるよ」
口を開きかけたフィオランを制して、メリュウ婆さんは杖を振るおうとした。フィオランは焦って身じろぎをする。
「なに? もう一人連れて行く?」
声の出ない自分の思念を読み取って、老婆は鸚鵡返しに言っ
た。ネイスを咄嗟に思い浮かべたのには理由があった。
メリュウ婆さんは文句を言いながらも、願い通りにすぐさまもう一人地底へ引きずり込んでくれた。
地上で狼狽している面々とは違い、姿に似合わずよほど胆力があるのだろう。ネイスは青ざめただけで、神妙に老婆の前へ降り立った。
「ひとこと言っておくよ。ここで見たこと聞いたことを外界へ持ち込まないこと。守れないようなら、このまま土の中へ埋めてやるからね」
ネイスは頷き、フィオランの傍らへ膝をついた。
「なぜ、わたしまで逃がしてくれたんだい?」
あんたが香炉の中身をすり替えてくれたからさ。
そう言葉にする代わりに、口の端を精一杯吊り上げてみせた。
ネイスはそんなフィオランを苦渋に満ちた表情で見つめ、微熱に浮かされて汗ばんだ額をそっと撫でた。
その光景をつぶさに観察していたメリュウ婆さんは、あえて沈黙を守っていたようだった。
すぐに気がつかなかったのは迂闊だったが、老婆の傍にはちゃんと一人寄り添っていたのだ。ドワーフのオイスだ。
フィオランの視線に気づいて、メリュウ婆さんは種明かしをした。
「レンティア森で行き止まりだった坑道を、ちょいと伸ばしてもらったんだよ。突貫工事でも大したもんだよ」
「それでも四日かかっちまった」
オイスはがなり立てるように言葉を継いだ。
その時、また細かな揺れが足元から起こり、その場にいる全員が顔を強張らせた。
どれくらい深いか想像もつかないが、ここは地中なのだ。
地上にいるのならまだしも、地中の穴倉にいて地震に遭遇するのは生きた心地がしない。
「決して対岸の火ではないってこった。わっしらも存亡が掛かっている」
オイスの小さな眼が、自分へじっと注がれる。
今の揺れで尻餅をついてしまったメリュウ婆さんは、よっこらしょと杖に縋って立ち上がった。
「さて、せっかくの労働奉仕だったが、突貫の坑道は危険さね。
さっさと退散するとしよう」
そしてフィオランとネイスを意味ありげに見つめる。
「安心おし。ちゃんと人間の世界へ戻してあげるさ。おまえさんがたには、まだやるべきことが沢山ある」
そこで傍らで腕を組む、ドワーフへ顔を向けた。
「もちろん、黒鳥宮まで掘り進んでるだろう?」
わざとらしい問いかけに、オイスはうんざりした顔をした。
「くどいうえに厚かましい婆さんだ」
ぶつぶつ口の中で文句を言いながら、オイスは坑道を塞ぐ岩盤に手をかけ、するすると中へ消えていった。その後を彼らも同じように追っていった。
動けないフィオランをネイスが背負い、一刻ほどで地上へ這い出た。
まだ夜が明けきらぬ未明。そこは、ラダーン国王の寝室だった。
また浅い揺れが起き、寝台やら室内の調度品やらが軽く振動した。
思わず毛布を掴んでしまったエリサは、顔を曇らせながら言った。
「まただわ。ここのところ頻繁に揺れている。タルル山の火口からも煙が上がり始めて六日経った。学者たちは一週間以内に必ず噴火すると主張し、大臣たちは陛下に宮廷ごと隣国への避難を勧めているわ。
でも、陛下はそれらの進言を拒絶されている。業を煮やした大臣や官僚たちの中には、病による療養と偽ってこっそり国外へ逃げ出した者が出てきてるわ。それに習って宮廷に出仕しなくなった貴族たちも多い。
身分が高いものほどそうよ」
「あんたとアーネスは、見上げた忠誠心の持ち主というわけか。
……どうりで、ラダーン人が国境付近の森でうろうろしていたわけだ。
国民も馬鹿じゃない。上の権力者どもがこっそり逃げ出していることくらい、すぐに勘づくだろうさ」
エリサは大真面目に頷いた。
「そうなのよ。陛下がベルウェスト市内の民と近隣の村民を隣国まで非難させようと準備されていたのだけど、その前に貴族たちが我先にと逃げ出してしまったわ。そのせいで、ちょっとした暴動が起きかけた。その影響で、王宮の支持を待たずにかなりの人間がレンティアの森に入ってしまった。
わたしたちがあの時出会った家族のようによ。山が噴火する前に、命を落とさなければいいけれど」
「もう、あの森には狼はいない。俺が襲われたのはちょっと特殊だったからな」
「どうしてそう思うの?」
「感じるのさ。レンティアだけじゃない。あの農夫が言ったとおり、この国にはネズミ一匹だって残っちゃいないさ」
「いるのは、わたしたち人間だけということ? だとしたら、危険を察知できない人間は滅びるしかないのかしら」
でも、あなたには何とかできるのでしょう?
そう言外に匂わせた口調であった。青い眼が真剣みを帯びてフィオランを食い入るように見つめる。
「聞いてしまったのよ。陛下とあなたのお婆さん……モーラの巫女の会話を。あなたを西の棟へ送り出した後、わたしは陛下の元へと引き返した。陛下は、あなたの中に眠る力が必要だと言っていた。
ラダーンに取って致命的なこの天変地異を、その力で抑えることができるかもしれないと」
やはり王位継承など、二の次の方便だった。エリサはそう受け止めた。
賢王と名高い現国王は、無慈悲で仮借ない為政者としても知られている。
そんな酷薄な王が継承者不足の事態に見舞われ、将来の行く末を案じるあまり気伏せりとなり、突如第二王子の捜索を命じた―――などとは、どうにも釈然といかないところがあったのだ。
「あなたには不思議な力があるのは知っていたわ。ただ、それはもっと違う意味の力だと思っていた」
縋るような目つきの裏にあるものに、フィオランは気がついていた。
何かを隠している。
この女は、自分が捜し人本人だと知った時点から、洞窟で時折こんな切羽詰まった狂おしい目を向けてきたのだ。
身体にかけてある毛布が引っ張られる。毛布を掴んでいる陶器のような白い手にあえて触れずとも、わかりかけていた。
サジェットの酒場で視た、彼女自ら飛ばしてきた唯一の映像。
豊かな情感に包まれて、記憶に留まり続けている一人の男の姿。
淡い亜麻色の髪が陽の光に透け、その髪が頬にかかるのを華奢な指が優しく払いのける。目尻に笑い皺を深く刻みながら、男は陽だまりのように穏やかに笑っていた。
恋人か? と、フィオランがエリサへ尋ねた男だった。
「俺もな、この中途半端な状態にはつくづく嫌気がさしているんだ。直に会って直接確かめたいことが山ほどある」
そう言って、いきなり起き上がろうとするフィオランを、エリサは慌てて肩を押さえて止めた。
「なにをするの? まだ起き上がってはだめよ。胸の傷が開いてしまうわ」
状態を起こそうと四肢に力を入れた途端、激しい痛みが走った。
それでもエリサの手を振り払って、強引に寝台の上に起き上がる。
血流が下がったせいか、今度は強烈な眩暈と吐き気に襲われ、頭が張り裂けそうなほど痛んだ。怪我のみならず、阿片の後遺症にも侵されているのだろう。
「まだ当分は絶対安静なのよ。出血しすぎたうえに致死量にも等しい麻薬の影響で、今無理をすれば命に係わるわ。だめよ、大人しく寝ていなさい」
「確かめたいことがあると言ったろう」
我ながら驚くほど超人的な意思の力で、フィオランは寝台から下りた。
ぐらりと視界が回転して倒れそうになったが、何とか踏みとどまった。
「やめて! 死にたいの?」
身体を張って押しとどめるエリサを、フィオランは皮肉な目で見下ろした。
「あんたも、俺の力を喉から手が出るほど欲しいくちなんだろうが。
素直に言えよ。誰を助けたいんだ?」
エリサの顔色がさっと変わった。
「フィオラン、とあんたは俺を名前で呼ぶ。決して殿下とは言わない。
たぶん、あんたにとって『殿下』は一人だけなんだろうな。今までも、この先もずっと」
「な、なにをいうの――」
「死なれて困るんなら、道案内してくれ。俺の力が必要んなんだろう?
色んな意味で」
この言葉の意味をどう受け止めたのか、エリサは沈黙した。
今確かめなければ、また誤魔化されそうだった。
引き戻そうとする手を払いのけて、とうとう豪奢な室内から出て行った。こうと決めたら梃子でも動かない強情さに、エリサはすっかり観念した。
夢遊病者のようによろめき歩くフィオランの脇の下に入り込み、身体を持ち上げるように支えた。
「どこへ行きたいの?」
額に冷や汗を掻きながら、フィオランは挑むように言った。
「まずは王太子殿下のところへだ」
顔を伏せたエリサの顔が暗く翳った。
~次作 「 4-4 滅びの淵 」 へつづく