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フェイ・エンダー/おわりびと⑳ 第三章 太古の記憶「3-3 怪鳥ラミア②」


第三章 太古の記憶

3-3 怪鳥ラミア②

( 前作「 3-3 怪鳥ラミア① 」のつづき )


 頭のてっぺんから湯気が出るほどの熱さだった。
 桶の水を被ったくらいの汗が次から次へと吹き出し、頬が燃えるように熱い。身体も段々と痺れてきて、感覚がなくなってきた。

「いい加減、もう上がれ」

 ヴィーは、ぬるま湯に浸かっているかのように、気持ちよさげに目を閉じたまま促したが、フィオランは口の端を吊り上げて虚勢を張った。
 この女より先に湯から上がって服を着るのは嫌だった。
 ただの意地だが、これはもう我慢大会のなにものでもない。それも参加者自分一人だけの。

「ここはドワーフの癒しの泉といってな、病や怪我を緩やかに治してくれる。この山一帯に堆積する鉱物が温泉に溶けてありがたい効能を作ってくれている訳だが、鉄分が強すぎて長湯には向かない。薬も過ぎれば毒になるというだろう」

 やんわりと退出を勧めてきたが、それでもフィオランは動こうとしない。
真っ赤な顔をしていながら平静を装い、笑いまで浮かべてみせた。

「なら、あんたにも同じように毒だろう。俺は入ったばかりだから、もう少し居させてもらう。どうぞお先に」

「意固地な奴だな。わたしに用があったから来たんだろう。大勢人がいる所では具合の悪いことか? 早く言ってみろ」

 他人へ関心を示さない超然とした態度を取っていながら、その実しっかり観察している。そのうえ、勘も鋭いと来るので真にやりづらい。
 フィオランはぐらぐらする頭を懸命に支えながらやっと声を絞り出した。

「どうも不思議なんだ。あんたがここまで俺に力を貸してくれるということがな。自分で頼んでおいてなんだが、はっきり言って俺はお荷物だろう? この五日間、あんたが俺に痺れを切らして置いていっちまうだろうと、正直何度も覚悟したぜ。だが根気よくあんたは俺の速度に付き合ってくれて、おまけにあんたらだけの秘密の場所にまで案内する羽目になっちまった。
大きなコブまで三つ増えた。なんで途中で見放されないのか、不思議で仕方がない」

 薄目を開けて黙って耳を傾けているヴィーは、怪我を負った左肩を湯に浸けながら右手でゆっくりと肩を揉んでいる。
 聞いているのかいないのか、わからない態度だった。

「それに、もうひとつ腑に落ちない。あんたとどこかで会ったことがあるか?」

 妙な質問だ。
 自分で初対面かどうか、判断できないと言っているのも同然なのだから。 
しかも、これほど強烈な特徴を持つ相手にだ。

「さて、厄介なことを聞かれたが、どう答えたらいいのかな? 約束を遂行しているだけと言っても信じないだろうし、親切心からと言っても納得しない。ある日おまえの知らない所でおまえに一目惚れして、それ以来おまえを付け回したうえ、偶然を装って救いの手を差し伸べたとでも言えば満足するのかな?」

 かなり長く湯に浸かっているにも関わらず、涼しい顔でヴィーはからかってきた。
 フィオランはというと、もはや限界地点へ到達寸前で眼が据わっている。

「おちょくるなよ。あんたは最初から俺に親切にしてくれた。俺はひねくれているんでね、純粋な真心とか親切とかってやつには頭から疑ってかかっちまうんだ。裏の裏があるんじゃないかと、つい考えちまう。大概の人間がそうだからな」

「おまえの周りにはろくな人間がいなかったんだな」

「そうかもしれない。だが、そいつが考えていることなんて普通は誰にもわかないことだろう? 頭の中を覗けるなら別だが。……だが、そんな芸当が出来る奴にとっては、ああまたかと思っちまうんだよ。好人物だと周りから評価されている人間でも、自分が得するように常に計算して動いている。
 誰でも自分が一番可愛いからな。それを相手に悟られないように言葉を飾って、機嫌を取って自分が損をしないように動いている。無意識に身についている。厳しい世の中を生きていくための、本能的な知恵なんだから当たり前のことだ。だから、俺の人に対する見方はもう習慣になっちまった。例外には今まで出会ったためしがない」

「おまえのあの友だちでも、か?」

 いきなりベヒルが登場してフィオランは少し面食らったが、すぐに頷いた。

「ああ。あんな害がない、とぼけた奴でも、だ」

「では、わたしも覗いてみればいい。その方が言葉を交わすより、手に取るようにわかるだろう?」

 どこまで本気なのか、ヴィーは気軽に勧めてきた。
 そら、とついでに湯に濡れて艶やかに光る白い腕を伸ばしてきた。
 身体に触れなければ視ることはできないと教えた覚えはないな、とフィオランは朦朧とした頭で考えた。

「……あんたはだめだ。何も視えない。何も。こんなことは初めてだ。だから不思議に思っている……あんたが人間じゃないからなのか、それとも、何か俺にとって特別な意味があるのか………」

 片手を伸ばして微笑む白い顔が霞んできた。

「あの紅い竜を知っている気がするんだ――」

 何を口走ったのか、もはや自覚がない。
 最後はろれつが回らず、口の中で呟かれ、ブクブクと湯の中に顔ごと沈み込んだ。
 ヴィーは泳ぐように滑らかに移動し、赤茶色の湯からフィオランを引っ張り上げた。
 天然のあぜに身体を寝かせ、鼓動と瞳孔の状態を確認する。
 典型的な湯あたりで、命の別状はないと判断した。
 
 大浴場に持ち込んでいた水の入った革の水筒を取りにあぜから離れた瞬間、背後でみしりと異様な音が起こった。
 それはごくごく僅かな、人間の耳には届かないほど微小な音で、湯が流れ湧き出るこの浴場で聞こえるはずもない。
 だが、ヴィーは振り向いた。そして、そこに現れたものを目にして、顔色を変えることもしなかった。

「何をしに来た」

 迷惑そうに声をかけ、じっと相手の動向を見やる。
 それ・・は、他の者が目にすれば、恐怖に悲鳴を上げ卒倒するであろう醜い姿をしていた。

 猫の目のように大きな吊り上がった目をした人の顔。
 血をにじませたような色の肉厚な翼を広げ、両足は黄金の毛で覆われた獣の足。イボだらけの爬虫類を思わせる緑色の胴体には、剥きたての桃のような生々しい乳房がたわわに実っている。
 その恐ろしい身の毛もよだつ姿をした生き物を、醜くも美しいと思う者もいるだろう。
 だが、その色がよくわからない大きな眼で見つめられ、正気でいられる者はほとんどいない。

 半人半獣と呼ぶべきか、それ・・はにっこりと笑った。
 笑った拍子に、濃厚な催淫的な匂いが漂ってきた。

「ヴァイオル」

 琴の一弦を弾かせたような音楽的な声が響いた。
 だが決して天井の音楽ではない。聞く相手によって破滅の音楽にでもなり得る危険な声だった。
 そして蕩けるような艶然とした笑顔。
 生身の男ならこれだけで魂を抜かれ、骨抜きになりそうな威力を発していた。

「呼んでいないぞ。自分の住処へ帰れ」

「女のそなたをひと目見るために参った」

 獣はうっとりと眺め回すようにヴィーの裸身を眺めやった。
 そして真っ赤に色づいた蠱惑的な唇を尖らせ、拗ねてみせる。

「われの視線に気づいていたであろうに。ひと言求めれば、如何ようにも手を貸したものを」

「そうして代わりのものを要求するだろう?」

 そう返されて、獣は笑いながら音もなく羽ばたき、あぜの上で仰向けに伸びたフィオランへ近づいた。

「おお、はよう手当てをせねばな」

「よせ、ラミア」

 ヴィーが制するより早く、獣は己の乳房をフィオランの口元へ寄せた。
 先端から液体が染み出し、雫となって半開きになった口の中へ落ちていく。それを見届けて、獣はにんまりと笑った。

「余計なことをするな。彼はまだ覚醒していない」

「ほう? 介抱が余計な世話とな? われの乳は霊薬と崇められておるというのに。さ、そなたも」

 これほど淫靡な乳房はないと思わせるふくらみを差し出され、ヴィーは迷惑そうに顔を背けた。

「いらん。助けも必要ない」

「おお、焦れったい。われがこの者を起こして・・・・やろうか?」

「ラミア」

 二度目の呼びかけに何を感じたのか。
 獣は眼を瞬き、名残惜しそうにフィオランから身を引いた。

「これ以上、中途半端なそなたを見るに忍びない。そうやっていつまで彷徨い続けておる? かつての力を喪ったそなたが。この世にダナー神族などもはや必要ないのだ。もう待ちくたびれたわ」

 色めいた声に一抹の淋しさが混じっているように感じ取れた。
 この不気味な獣にも人のような感情はあるのだ。

「わたしはもっと待っている。気が遠くなるほどに」

 自嘲めいた呟きは獣の耳にも届いた。
 獣は限りない優しさをこめて微笑み、背後の瀑布を模したような岩壁へ溶け込むように消えていった。



 正体不明の恩人から差し入れされた夕食をすっかり平らげた囚われ人たちは、いつまでたってもフィオランが返ってこないことに対して議論していた。
 逃げたのではないかと疑うエリサに対して、アーネスはそんなはずはないと否定し、ベヒルはそこまで卑怯な人間ではないと友人を擁護した。

 探しに行きたくても、一歩部屋から出たが最後、身の安全は保障しないと小びとに脅迫されている以上動くことはできない。
 ここはどこやら見当もつかない地底で、得体のしれない彼らの巣窟なのだ。言う事を聞いて、大人しくしている方が利口というものだ。
 何もしなければ危害を加えないと言われ、実際その通りであった。

 ベヒルはともかくとして、二人のラダーン貴族は恩人の正体に薄々気づいていた。はっきり姿を見たわけではない。だが、知識として思い当たるものがあった。
 地底深くに住み、時折人間に悪さをする強欲なドワーフの話。
 伝説上の生き物だとばかり思っていたが、摩訶不思議な体験が重なったせいで、二人はこの世には知らないだけで不思議なことが多々あるのだと認めるようになっている。

 そんな折だった。
 いきなり緞帳が乱暴に捲り上げられ、彼らの目の前に全裸の男が転がされた。
 もとは色白だった肌が頭髪と同じく全身真っ赤に染まり、髪と肌の区別もつかない茹でタコのような有様になっている。
 エリサは意外にも可愛らしい悲鳴を上げて顔を背け、アーネスが慌てて裸体を隠そうと毛布を手に取った。

「しばらく放っておけ。身体が冷えたら自分で服を着る」

 フィオランを担ぎ上げてきて文字通り床へ放り投げた張本人は、無情にもそう言い放った。

「ど、どうしたんですか? 一体」

 ただ事ではない様子にベヒルはおろおろして、自分より遙かに背の高い麗人の顔を見上げた。

「ただの湯あたりだ。呆れるほど意固地な奴だな、きみの友人は」

 麗人は大真面目な顔をしてそう述べた。


~次作 「 3-4 狼の顎 」 へつづく

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