フェイ・エンダー/おわりびと㉗ 第五章 宿命を終わらせる者「5-1 覚醒】
第五章 宿命を終わらせる者
5-1 覚醒
( 前作 「 第四章 血の絆 4-4 滅びの淵 」 のつづき )
「陛下! 早くお逃げください! すでに避難の手筈は整っております。
さあ、お早く!」
髪を振り乱した侍従長が、必死の形相で王の身体に手をかけた。
低く呻き声が上がる。王を庇って床へ倒れ伏していたアーネスが、侍従長の手を払いのけた。
「待て、お怪我をされている」
ラムトン子爵が言うとおり、王は不運にも一部の天井が崩れた際に腰を負傷していた。
「陛下、どうぞわたしの背へお乗りください。お守りできずに申し訳ありません」
そういうアーネスも頭に怪我を負っている。噴火による激震と、飛来してきた人の頭ほどある石が王宮にまで降り注ぎ、二重の打撃によって崩れた天井の欠片が頭に当たったのだ。
血が流れ、片目の視界を塞いでいるにも係わらず、国王の身ばかり案じていた。王はこの忠臣へ笑みを送り、頭を振った。
「いや―――。市中の民は、ほぼ避難を終えておるのだろうな?」
老王は背負われることを拒み、その場で状態を起こそうとした。
激痛に呻く王を、侍従長が慌てて支える。アーネスも反対側から支えようとしたが、背骨をやられていることに気づき、沈痛な表情で王を再び床へ横たえた。そして、努めて声を励まして言った。
「はい。北と西の国境を越えた辺りまで避難するよう、近隣の村も含めて触れを出しておりますので。残留者は、陛下がまだおられるといって頑なに動かない少数の市民と、彼らのために残った数人の司祭だけとの報告を受けております」
「忠義者よの。国王としての冥利に尽きるわ」
王は低く笑った。
アーネスは近衛隊隊長として、最後まで王に付き従う近習の一人であった。
その彼が王命を受けて、ここ数日近衛隊を率いて市中へ赴き、市民の避難が完了しているか直に確認を取っていた。
王の軍隊は有事の今、細かく分割されて、隣国へ向けて避難を開始した八十万人近くにもなる市民と行動を共にしている。
今や人の影が消え失せた王都ベルウェストに、岩石が雨あられと降り注いでいる。この地獄絵図のような光景を、一同は声もなく見つめるがままであった。
山頂から突き上げる巨大な噴煙が、遙か上空をどこまでも登り、広がっていく。その漆黒の煙はみるみるうちに空を覆い、太陽の姿を遮った。辺り一帯、夜が訪れたような薄闇に覆われていく。
「同じだ………。以前に読んだ文献とよく似ている」
王のもとへ歩み寄ってきたラダナスが呟いた。傍らにはエリサがしがみつくように寄り添っていた。王は息子へ眼を向けた。
「そなたたちは逃げなさい。まだ間に合うだろう」
父王の気遣いに、ラダナスは静かに頭を振った。
「もう無理でしょう。直に次の爆発がくる。タルル山に噴火の兆候が現れた二年前に、古代に記された文献を読んだのです。そこには噴火の状況が克明に記されていました。今のこの状況とほぼ同じです。地震を伴う大噴火の後、大石が降り注ぎ、間を置かずに次の噴火が起きる」
皆、固唾を飲んで注目する中、ラダナスは躊躇うようにいったん言葉を切った。
「次の、その噴火が起きてしまえば、もはや為す術はないのです。
山から噴き出した火山灰が熱風を伴ってすべてを焼き尽くすのです。
その速さは十里を一瞬で駆け抜けるほどで、馬の足を遥かに凌ぐ。
とても逃げおおせるものではありません」
その間にも、地鳴りと大気自体が破鐘と化したような、凄まじい轟音が間断なく続いていた。
彼らは言葉もなく立ち竦む。
東大陸に五百年君臨してきた大国が、自然災害によってあっけなく滅び去るのだ。誰もが、国の終焉にこうして立ち会わざるを得ない非運を感じた。
「あんたら揃いも揃って馬鹿か?」
それまで地震と火山噴火に腰を抜かすほど魂消ていたフィオランが、陰隠滅滅した面々へ呆れ果て、罵倒した。
「達観している場合じゃないだろう。噴火の影響がわかっていたのなら、
なぜさっさと逃げない。当てにならない大博打を打っておいて、見事に外れたから国と命運を共にしておさらばするってのかよ。何を考えてるんだ、
無責任すぎるぜ」
本来なら眉を顰めるほどの伝法な口調が、この時ばかりは絶望漂う空気に活を入れる効果をもたらした。
「統治者なら統治者らしく、もっと意地汚く生き延びてみやがれってんだ」
「へ、陛下に対してなんという口の利き方を……!」
怒りと驚きに顔を赤くした侍従長が、堪忍袋の緒を切らして詰め寄ってきた。
そこで第二の噴火が起こった。今度は連続した小規模噴火で、山頂を覆っていた噴煙が突然崩壊したのだ。
四散したかのようにみえた噴煙の後から、新たな噴煙が湧き出てきた。
それは山頂すべてを覆い尽くし、生き物のように姿を変え、恐ろしい速度で山の斜面を駆け下ってくる。火砕流であった。
「死の灰だ―――。あれに襲われてしまえばひとたまりもない」
ラダナスが呻いた。フィオランは、王宮の眼下に広がるベルウェスト市街を一望した。
タルル山麓からこの王都まで四十里はある。人間の尺度からすれば十分な距離でも、自然の猛威の前では僅かなものでしかない。
それを裏付けるかのように、山を駆け下りてきた津波のような火砕流は、山麓の森と村々をあっという間に飲み込み、辺り一帯をなめつくした。
悪夢のような爆炎の中で火の手が上がった。火砕流はもうもうと隆起しながら、まっしぐらに王都を目指している。
( ベヒルは逃げたのか? )
市街へ到達まであとわずかというところで、唐突にフィオランの脳裡にひとつの映像が飛び込んできた。
まったく見覚えがない。
こみ入った街並みの中に埋もれてしまうような小さな教会。
白い司祭服を着たベヒルが、孤児のように粗末な身なりの子供たち数人を庇うように抱え込んでいる。
フィオランは顔色を失っているアーネスへ鋭く問い質した。
「市中に誰が残っていると言った? 司祭も、と言ったな。まさか、ベヒルのことか!」
痛ましい目つきを返して寄越されたのが返事であった。
フィオランは何か見つかるかのようにそこら中を見渡し、狂ったように頭を掻きむしった。
「俺に何が出来るってんだ!」
怒鳴った先には、ヴィーが異様に光る眼で自分を見つめていた。
頭の中を根こそぎ鷲摑みされたような衝撃を受けた。自分が何をすべきか、逃げ続けるにはもう潮時だ。そう観念した。
「……どうやればいい?」
真摯な声に、ヴィーは微笑した。
「私の名を呼べ。おまえは知っているはずだ」
思い出せ―――。
フィオランは眼を閉じた。
長い間、内側から浮き上がってくる膨大な映像は、自分とは別人格の人間の記憶だと思い続けていた。その記憶をすべて自分のものであるとようやく認め、受け入れた。
拒絶し続けてきた遺産が深淵から急浮上し、堰を切って溢れだした。記憶の爆発であった。
濃い霧を掻き分けるように、高速で記憶を辿っていく。膨大な量の映像が星の数ほどの破片となって通り過ぎ、フィオランはついにひとつの映像を捕まえた。
「――ヴァイオル。ダナー神族の最後の生き残り。竜の使い手……」
遥か昔も今も、姿は変わらない。時代が変遷するたびに性別を変え、輪廻し続ける自分の魂に寄り添い続けてくれた。
いつの間にやら、ヴィーが目の前にまできていた。
星のごとき輝きを放つこの銀の瞳に自分はどれほど見惚れ、憧れてきたことか。見入っている最中、ヴィーは頬に指を触れ、唇を寄せてきた。
形のいい唇が切れて、血が滴っている。
自分で噛みきったのか?
驚く暇もなく唇を重ねられて、すぐに痛みに顔を顰めた。
噛まれた唇から血が溢れだす。互いの血が混じり合い、鉄臭い味が広がっていった。
一度こんな儀式をした覚えがある。とてつもなく古い古い記憶だ。
そんなことをなぜ覚えているのか。
では、俺は? 自分は一体何者か?
自分へ意識を向けた途端、目に映る風景ががらりと変わってしまっていた。いや、風景が変わったのではない。これまでと見え方がまるで違うのだ。
死の爆煙がついに市中の外郭にまで到達した。
火の手がベルウェストの縁から上がり始める。それをフィオランは高みから隅々まで見渡した。
視力がどうにかなったのか、ずいぶん上空にいるにも係わらず、地上の細かな石畳の模様まで確認することができた。
ふと、首を捻って足元を見やると、王やラダナスたちが恐怖にも似た、 驚愕の表情で自分をぽかんと見上げている。
大地が揺れようと火山が噴火しようと、あんな間抜けな顔はしなかったのに、とフィオランは可笑しくなった。
笑った拍子に、口から大量の炎が噴き出た。
腰を抜かすほど驚いたが、なるほど竜になったかと能天気に納得した。
思考回路のネジが一本どこかへ吹っ飛んだにちがいない。
高揚した雄叫びをあげた。
火炎が火柱となって、上空を覆う黒煙にまで達した。目を転じると、下界でヴィーが星明りのように眼を煌めかせ、自分が方向を違わぬよう、手綱を取ってくれているのが分かった。
洞窟の中で火竜を創り出したとき、胸が焼き付くほどの懐かしさを覚えたわけだった。自分自身のかつての姿を恋しがっていたのだから。
鱗が光を反射する。紅玉のように輝く己の胴体を見せびらかすように大きく旋回してから、フィオランは市中へと襲いかかる火砕流へと急降下していった。
巨体から繰り出す風と火炎が、津波となった火砕流を押しとどめる。
押しとどめられた火砕流は、フィオランが巻き起こした風ごと、巨大な壁となって立ち上がった。しかし、火砕流は山から大量に駆け下り続け、止む気配は一向にない。
風が欲しいと思った。どうやってやるんだ?
頭の中で、ヴィーの銀の眼が瞬き、囁いた。
(ただ思い浮かべ、なぞればいい。いつもそうしてきただろう?)
フィオランは破顔した。
(そうだったな)
意識がもっと軽くなった。身体が大気に溶けてしまったかのような感覚であった。妙なことだが、分散した自分が四方八方から怒涛となってやってくる。
大風を起こして吹き抜ける中、子供たちを抱え込みながら祈るように空を見上げるベヒルを見た。
おまえは俺が守ってやる。
ベヒルたちを吹き飛ばさぬよう注意しながら、そう耳元へ囁いて通り過ぎた。
空を遮るほどにまで達した黒煙の壁へ、あらゆる方角からやってきた風がひとつとなり、激突した。大風の凄まじい力は地面の石畳まで根こそぎ剥がし、石の家屋ごと火砕流を持ち上げた。
巨大な壁が崩れ、上空へ上空へと追いやられる。
火口から続いている死の灰の道も、大風の威力によって遥か大気圏にまで散り散りに分散されていった。
フィオランは最後の仕上げとばかりに、持てる限りの力を振り絞った。
意識という意識を大地と大空へ広げ、火口から上がる噴煙が終息の時を迎えるまで監視を続けた。
大気と一体となって。
『愚かなフィオラン。いつまでそうしておる?』
幾日目かのある夜、火口の周りを漂う自分の意識へ話しかける者がいた。
疲れ果て、鉛のように重い瞼をこじ開け、フィオランは大儀そうに声のする方へ眼を向けた。
顔は若い女、身体は獣やら鳥やら得体のしれない怪物が中空に浮かんでいた。自分はもはや、まともな人間ではなくなってしまったが、人間をやめた途端に早くも奇怪な生き物を目にするのはあまり有難くはなかった。
怖がるよりも、明らかに嫌そうな顔をしたフィオランへ、怪物は真っ白な歯を剥いて獰猛に笑った。
『相も変わらずふざけておるわ』
怪物はどことなく楽しげであった。
『おまえは何かにつけ、事を起こすのが遅すぎる。そうして己を破滅させてきたというのに、いまだ懲りておらぬとはの。大事なものを喪ってもまだ目が醒めぬのか?』
「目ならとっくに覚めたさ。覚めたから、こんなけったいな状態になっちまってるんじゃねえか。誰だい、あんた」
女の顔をした怪物は、恐怖を抱かせるほど大きな眼を細めた。力が解放されても、記憶のすべてが蘇ったわけではない。
『われは見張り役、常世への門番、あるいは死出への道先案内人。様々な呼び名がある』
「地獄の使者だな」
『それは人間どもの呼び名だ』
怪物の色のよくわからぬ目を見つめているうちに、深海ともいうべき記憶の底から浮上してくるものがあった。
「………そうか。ラミア。おまえはラミアだな?」
その名と一緒に、あまり歓迎したくない暗い記憶も纏い付いている。
「ひょっとして、お迎えに来てくれたのか?」
もうちょっと待ってくれよといった風に、フィオランは飄々と笑った。
「そろそろお山も落ち着いてきた頃だろうが、もう少し様子を見ていたいんでね」
最初の噴火から数日かけて、ごく小規模の噴火が幾度か起きていた。
そのたびにフィオランは竜や大風に姿を変え、王都一帯を噴火の脅威から守り続けていたのだった。
『そう。とうに終わっているはずのおまえの命。死にかけていたおまえが、何故に未だ力を振るい続けることができるのか、不思議には思わぬか?』
ラミアの問いに、実体を持たないフィオランは肩を竦めてみせる表現をしてみた。それでも黄泉の世界の怪物には十分伝わっている。
「さあ? 考えてもどうせわからねえ」
ラミアは意地の悪い笑みを、毒々しい朱色の唇へ浮かべた。
『われの乳を飲んだであろう』
「はあ?」
『われの乳を与えたため、おまえは廃人になるほど薬物に冒されても、大量に血を失っても、生命を蝕むほど惜しげなく力を振るい続けても、いまだそうして生きながらえることができておるのだ』
まったく身に覚えのないことを言われて、フィオランは眼を白黒させた。
それもよりによって『乳』とは尋常ではない。毒を飲んだと言われても、これほど身の毛がよだつほどの気味悪さは感じなかっただろう。
『そしておまえは知らぬ。この世の理を曲げることの意味を。この世にもあの世にも、無尽蔵の力などない。代価は払わねばならぬ』
言いたいことだけを言って、黄泉の怪物は闇に溶けこみ、完全に姿を消した。
ラミアが消えた後も、フィオランは一方的に告げられた言葉の意味がしばらく頭から離れなかった。
大気と一体化した今の状況が、すこぶる楽で気に入っているせいもあり、
あれから一度も下界には降りていないのだった。
王都ベルウェストは火砕流による壊滅的な破壊は免れたが、噴火による地震で建物の多くは損壊し、昼も夜も降り続ける火山灰で都市全体が豪雪地帯のような有様になってしまった。
噴火活動は終息に向かっているので、やがて市中に民は戻ってくるだろう。
だが、以前の王都の繁栄を取り戻すには、この先何年かかるやら見当もつかない。そのすべてをフィオランは鳥瞰していた。
市中に残っていたベヒルや、少数の市民は無事に生き延び、避難のため王宮入りをしたことを確認している。
王宮では、アーネスら残っていた家臣らが、機能が麻痺した国を立て直すべく、後処理に奔走している。
重度の負傷をしながらも、病床で気力を振るって国政を執る王。その王を補佐するラダナスは、時折隠れて鎮痛剤となる阿片を吸引しながら身体を蝕む病と闘っている。
そんな王と王太子が、黙して自分を待ち続けていることも知っていた。
人間の枠から外れた存在となった今、再び彼らの元へ戻ることが煩わしかった。正直な気持ちだ。
戻ったところで、化け物を見るような目で見られ、排除しようとされるかもしれない。自分が産まれたときの国王がみせた反応そのままに。
はっきりいって、彼らをまったく信用していなかったが、何故戻る気になったのか。
それはフィオラン自身にもよくわからなかった。
~次作 「 5-2 恋焦がれる 」 へつづく