フェイ・エンダー/おわりびと㉓ 第四章 血の絆 「4-1 死のはざま②」
第四章 血の絆
4-1 死のはざま②
(前作 「 4-1 死のはざま① 」 のつづき )
「あなたを丁重にお連れするようにと言い付けておいたのだが、あれは何につけやりすぎるきらいがあるようだ。モーラの民はとみに矜持が高く、わたしでさえ時に持て余す。あなたに怪我を負わせたのはわたしの本意ではないと、どうか信じて頂きたい」
聖職者の身分を表すリガの印綬と呼ばれる円形の徽章に手を当て、ホスローは頭を下げた。
遠い西の領地に君臨する教皇に次ぐ地位を持つとされる東の大僧正が、名もない庶出の王子に低頭するというのはなんとも奇妙な光景であった。
「先ほども申し上げたが、国王はあなたから何とか力を引き出そうと様々な手段を試みるだろう。怪しげな術者を各地から呼び寄せているのがその証拠。血の繋がりを頼って迂闊に近寄れば、たちまち拘束され、二度と日の目を浴びることはできない。国王は王権を強化させることに血眼になっている」
「世継ぎの王太子はどうなったんだい? 自分の跡継ぎは眼中にないのか?」
「………王太子はいずれ廃嫡になろう」
ホスローの声が微妙に変化したようだった。
「廃嫡になる前にこの世を去るか。どちらにしても、国王の関心はすでに離れてしまっている。だからこそ、王権を存続させることにやっきになっているのだ。あなたを使って」
「王権を強化させたいのなら継承者が必要だろうに。なのに、王太子も俺も必要ないとはな。力とやらのみに用があるのか? 不老不死にでもなるつもりなのか? ちょっと理解に苦しむな」
飲み込みが悪い子供のように小首を傾げてみせた。
「俺の力ってそれほど魅力あるものなのかい? 継承者自身ではなく、力そのものがほしいと望むくらいに。その価値を当然あんた知ってるんだろう?」
高位の聖職者として長年辣腕を振るってきた老僧は、髭に隠された表情をそっと引き締めた。
軽薄な馬鹿者のフリをしているが、先程から時間をかけてこちらの企みを誘導して引き出そうとしているのが分かったのだ。
いいだろう。知りたければ教えてやるまで。与える情報はいくらでも選別できる。ホスローは髭の陰で口元を吊り上げた。
「幸か不幸か、あなたは自身の中に流れる血の意味をまるでご存じないようだ。母上はあえてあなたには隠されたのだろうか」
「教えてくれる前に死んじまったからな」
自分に肝心なことを何一つ教えなかったのはメリュウ婆さんだ。
だがそれをあえて口にする必要はない。
ホスローは軽く頷き、聞き流した。両の掌を組み直し、物々しく語りだす。
「古の種族の末裔と言われるモーラ一族には、『竜の目』と呼ばれる力の伝説が纏わりついている。それは、神代の時代にダナー神族との契約により、モーラの民はある創造の力を授かった。その力とは、或るものを或るがままに。無からあらゆるものを創り出す創造の力。いわば神の力だ。その甚大な力をその身に深く宿した者は眠りについた。その後、力を受け継いだ人間が時代時代に現れ誕生したようだが、力を求める抗争に巻き込まれ、皆成人する前に殺されてきた。最後に力を受け継ぐ者が命を絶たれて以来、五百年以上は経っているとされている」
ホスローはいったん言葉を切り、フィオランへ吸い付くような目線を送った。
「その竜の創造の力を授かった者の特徴は共通している。すなわち、鮮血にも似た赤い髪、秀でた容貌、緑柱石のごとく輝く新緑の瞳。フィオラン殿下、あなたそのものである」
それは自分の知らない世界の側面なのだろう。
そう、側面にしかすぎないはずだ。ホスローは事の次第の全貌を決して語ってはいない。
それはわかってはいるが、予想以上の内容にさすがに言葉が詰まった。
何の冗談かと胸の中で自問自答をした。
「国王スタフォロス四世がこの伝説の真偽をどこまで理解しているかはわからぬ。わからぬが、あなたの中にあるはずの力を自分自身に用いようと考えたとしても何ら不思議はない。己が生き永らえば、王位継承という憂いもなくなるであろうから」
意味が分かるか、と老獪な大僧正の眼がひたと顔に据えられた。
いわずもがな、それは不老長寿を指すはずである。ドワーフの地下宮殿でその予想はすでに立てていたばかりだ。
フィオランは思わずひと声あげて笑ってしまった。
「そんなことまで出来るのだとしたら、俺は正真正銘化け物じゃねえか。
それとも万物の創造主か? どっちにしても人間じゃねえやな」
「己が信じられないかね? 己の中に宿る力の片鱗さえ感じられないかね?
多くの者が崇め欲するであろう力だというのに」
信じるも何も、てめえもそれが目当てなんだろうと喉まで出かかったが、かろうじて自制した。まだこちらの意思を示す時ではないと冷静に頭を働かせたのだ。
フィオランの沈黙を、ホスローは動揺ゆえの迷いと受け取った。
「スタフォロス四世は賢明な君主ではあるが、世継ぎの王子が不治の病に倒れて以来、正気を失った。どのような英邁な人物でも、闇はあるのだというよい教訓であった。王太子の病をきっかけに亀裂が生じ、彼の中に抑え込まれていた欲望が地中から滲みだす湧き水のように溢れだしたのだ。血を分けた子を犠牲にしてまでも王位を守りたいという欲望が。もしあなたの中に少しでも父王への情があるのであれば、それを持ち続けるのは賢明ではない。……このようなことを申し上げるのは遺憾ではあるが………」
ホスローは相手が黙って耳を傾けていることを確認して、再び話を続けた。
「国王を決して信用してはならない。このようなことをあなたに告げるのはひどく胸が痛むが……。つまり、国王があなたを手にかけようとしたことが一度あったのだ。乳飲み子のあなたが母上と共に宮殿で暮らしていた時のことだ」
固唾を飲んでいるような相手の反応に、ホスローは満足したようだった。
「なぜ宮殿を追われ、逃亡の人生を送る羽目になったのか、あなたは真実を知るべきだ。国王はあなたの力に怯えていたのだ。第二子が誕生した日、王家御用達の占者や我々正教会の視る力に長けたものはこぞって予言した。
この赤子の掌に王家の命運が握られていると。王家を生かすも滅ぼすも、この赤子次第である。それを聞いて、国王はあなたの抹殺を謀った。父親としての情愛を捨て、為政者である国王の座を選んだのだ。それも、後顧の憂いを断つために、モーラの一族郎党へまで手を伸ばした」
どういうことだ?
エリサたちに聞かされた内容と話が食い違っていることに、フィオランは訝しんだ。彼らは、国王は自分たち母子をそっと宮殿から逃がしたと言ったのだ。
「あなたが産まれて十月経った頃であった。最果ての地に住まう誇り高き巫覡の一族が、ラダーンと婚姻を結ぶことで事実上スタフォロス四世に膝を屈した。その上、誓約の証であるかのように男児まで産まれたことを理由に、王はモーラ一族をラダーンへ呼び寄せたのだ。祝賀を開き、両国の永遠の友好を祝う名目の裏には、今後のラダーン王家への絶対服従を要求していたのは誰の目にも明らかであった。鬼道をよく使うとはいえ、もはや少数部族となってしまったモーラには抵抗する術もない。そして皮肉にも、両者の架け橋ともなる男児は『竜の目』を宿す運命の子供であった」
舞台効果を図る役者のように間をおかれ、フィオランは話の先を焦れて待つあまり、その隙に濃厚な匂いを放つ煙が枕元へ忍び寄ってきていることに大して注意を払わなかった。
「婚姻により、モーラの勢力を手中に収めようと画策していた王であったが、気が変わったのだ。西域の部族へ強い影響力を持つモーラが消えることなると、西大陸での勢力図も変わる。過去に幾たびかあったように、不気味な力を復活させ、いずれ反旗を翻されるという心配もせずに済む。王は祝賀の席を利用して、モーラ族長を始め、使節団として同行していた近親縁戚、護衛の一戦士に至るまで全て謀殺したのだ」
玉座に土気色の顔で陰気に座りこむ老いた王。
黒曜石の床にのたうち回る異国風の人間たち。
その顔や腕に施された藍の刺青と死に際の形相が凄まじすぎて、未だに夢で見るほどであった。
サジェットで、エリサを介して視た映像だった。
あれはこういう事だったのか? 俄かに顔が強張った。
ホスローは語り続ける。
王は愛妾であるモーラ族長の娘と十ヵ月になる赤子を手にかけ損ねた。
母子は同胞の命を張った手助けにより宮殿を脱出し、そのまま行方を眩ましたという。
ラダーン国王はすぐに追っ手を差し向けたが、消息を容易に掴むことができなかった。
この謀殺劇は更に大掛かりな殺戮を生んだ。
どういった神がかり的な手段によってか、ラダーン王宮で族長一行が殺害されたと知って、最果ての地で留守を守る眷属たちが一斉蜂起したのだ。
国王はすぐに精鋭の大部隊を送り、長引くかと思われた反乱はあっけなく鎮圧された。
王宮で指導者陣と有力な能力者のほとんどを喪ったせいもあるが、大国の攻撃に立ち向かえるほどのかつての力を無くしていたのが敗因であった。
伝説的な鬼道を誇る巫覡の一族の名は、とうの昔に有名無実化していたのだ。
後の禍根を断つために、討伐隊の網から逃れたモーラ狩りが徹底して行われたという。
モーラ人を匿った近隣部族は容赦なく焼き討ちするというラダーンの強硬な触れが周辺各地に言い渡された。近隣部族は、自分たち西域単部族の支柱的存在であったモーラがかくも簡単に攻め滅ぼされたことに震えあがり、徹底した傍観を決め込んだ。
逃げ伸びたモーラ人を見つけた者には賞金まで出された。
かくして、年寄りから乳児に至るまでモーラの血は根絶やしにされ、今ではモーラの名は呪われた名前として、人々には口にするのも憚られている。
モーラの血を引くがために今日まで特徴を隠し、犯罪者のような逃亡生活を送ってきた。
人々に疫病のように忌み嫌われる存在にまで貶めたのが、自分の父親であったとは。その原因が父の裏切りであったとは。
「………それが本当なら、国王の恥知らずな所業を周りの列強国たちが黙っていなかったんじゃないのか?」
声が少し震えるのを止められなかった。
この老獪な大僧正が語るままを鵜呑みにするのは危険すぎるし、癪にも障る。
大僧正は沈鬱な表情で頷いた。
「事実はどうにでも捏造できるのだよ。現に、モーラ滅亡から二十数年経った今、事件の発端はモーラ族によるラダーン国王の暗殺及びに反乱であったとされている。大国の権力者ともなれば、世にそう知らしめ、納得させるのもそう難しいことではない」
「とても信じられねえ………」
フィオランは呆然と呟き、思わずといった風に片手をよろよろと上げた。
その縋りつくような衝動的な動作にホスローは憐みの眼を向け、その手を取った。己の皺だらけの手で労わるように包み込んだ。
「大怪我を負った身に、このような話をしたことをどうか許して頂きたい。あなたが抱え込む力は二重の意味で強大すぎ、とても一人で御しきれるものではない。わたしがあなたの手足となって、この先永劫にあなたを支えよう。わたしはあなたの最大の後見人だ」
力強く励ますように、熱をこめて耳元で囁かれた。すでに濃厚すぎる甘い匂いが寝台の上を帯となって揺蕩っていた。
その煙に巻かれぬよう、大僧正はうまく顔を避けて、怪我人の上へ屈みこんでいる。
フィオランの瞼がぴくぴくと痙攣し、夢うつつのように落ちかけた。
「はい、仰せのままに。大僧正猊下―――そう言った方がいいんだろうな」
夢見心地な表情で、ふざけた調子の言葉が飛び出てきた。
目を剥く大僧正に、フィオランは口角を上げてふてぶてしく笑ってみせる。
「申し出は涙が出るほど有難いが、俺はかなりの天邪鬼でね。そう押しが強いと逃げ腰になっちまうんだ。手を貸すだの後見してやるだの、正直迷惑なだけだ。そんなケッタイな力を振るいたいとも思わねえしな。この世の救世主になりたいという野望も持っちゃいない。当てにされるのも困る」
そしてとどめにこう付け加えた。
「ああ、それと偉い坊さんが嘘をつくのもどうかと思うぜ。あんたが俺に聞かせてくれたことは大半が真実だろうが、あんたら正教会がまるきり関与していなかったわけじゃないだろう? モーラを叩き潰して西域を掌握したかったのは、スタフォロスじゃなくて正教会じゃあねえのかい? なんせ、西には教皇様がいるしな。それに情報操作と異教狩りは正教会のお得意中のお得意だろ。…モーラ一行に毒を盛ったのはあんた自身じゃねえのか?」
ホスローはゆっくりと上半身を起こした。
すでに握っていた手を離しており、代わりに首から下げたリガの印綬を確かめるように触っている。
その色の薄い眼は、感情を押し殺すかのように細められていた。
フィオランは最後の抵抗をと、攻撃を緩めなかった。
「中身を視させてもらったよ。あんた、かなり真っ黒だな」
ホスローの顔色が変わった。
ついに椅子から立ち上がり、寝台から傲然と身を引いた。
覚醒前の上に腑抜け、と侮っていた若者の能力を見くびりすぎていたことに、遅ればせながら気づいたのだ。
力の大半が眠ったままだと思い込んでいたが、接触による読心術を持っているとは思い至らなかった。
この庶出の王子が何一つ力に目覚めていないと、イアンの報告を真に受けていたのだ。
髭の中で歯軋りしながら、ホスローは声を絞り出した。普段の高潔な立ち居振る舞いからかけ離れた獰猛さであった。
「兄よりも父親に似るとは………。親子そろって愚かなほどに頑迷であるな」
そして背後でひっそりと控え続けていた側近へ合図を送り、衣擦れの音を立てて室内の中央へと退いた。
「せめてそなた自身の意思で開眼させたかったが、無駄な努力であったようだ。自分の蒙昧さを永劫に悔やむがいい」
入れ替わって枕もとへやってきた中年の僧侶が、掌に包み持つ小さな香炉をフィオランの顔へ近づけた。
先ほどより匂いが変わっている。大僧正と額を付き合わせて話し込んでいる間に中身を元に戻したのだろう。
もとより連日の薬漬けで四肢に力が入らず、香炉を押しのけることも出来ない。顔を僅かに背けるだけで精一杯であったが、僧侶は強引に鼻へ押し付けてきた。
これが麻薬であることは、フィオランにはとうにわかっていた。
これだけ強く焚き染められて吸入し続けることは破滅を意味した。
緋色の衣の老僧が煙の向こう側で、冷酷なほど落ち着き払って様子を見守っている。また恍惚感が波となって襲ってくる。フィオランは呂律の回らない口調で諍った。
「なめんなよ……てめえらの好き勝手にさせるか………」
大小の渦が沸き起こり、フィオランの意識は一枚の木の葉のように巻き込まれ、跡形もなく沈んでいった。
~次作 「 4-2 破戒僧 」 へつづく