フェイ・エンダー/おわりびと⑥ 第一章 異能の者「1-3 月夜の麗人②」
第一章 異能の者
1-3 月夜の麗人②
(前作1-3 月夜の麗人① のつづき)
今までまったく気がつかなかったことに、飛び上がるほど驚いた。
枝葉の陰になって月明かりが届かず、相手の姿形がよくわからない。
見えるのは長い脚だけだ。
昔の狩人のような、革製の古風な靴を履いていた。
奴らがもう追いついたのか?
フィオランは目を光らせて警戒した。
「わたしの荷物からどいてくれないか?」
声を聞いて、フィオランは更に驚いた。
落ち着き払った、若い女の声だったからだ。
拍子抜けしてすぐに動けないフィオランへ、相手はもう一度繰り返した。
「わたしの荷物を潰している。どいてくれ」
「あ、ああ……」
我に返り、軽く気絶しているベヒルを横へと引き摺った。
ベヒルの尻の下から現れた荷物は、見事に尻の形となってぺしゃんこに潰されていた。
つまり、ベヒルはここで休息を取っていた人間の荷物の上に運良く落ちたという訳だ。
自分のした事とはいえ、この偶然ではあるが大事に至らぬ無駄のなさに感じ入っている間、相手は潰された荷物を拾い上げている。
長い黒髪がばさりと流れ落ちたのが暗闇の中で見えた。
「ひ、ひいいー……人殺しぃー」
息を吹き返したベヒルがフィオランの腕の中で呻きだした。
フィオランは顔を顰めて突き放す。
「悪かったよ、おまえの運動神経をちっとも考慮してやらないで。……荷物すまなかったな」
このひどい言い草にもっと文句を言い出したベヒルを無視して、フィオランは女へ声をかけた。
女はオリーブの木の幹に手を当てて、呟くように言った。
「おまえたちは彼らにも謝らなければならない。ずいぶんと乱暴なことをしたぞ」
「え?」
「追いかけっこは向こうでやってくれ。そら」
「は?」
犬猫を追い払うように手を振られた矢先、崖から幾つもの小石が転がり落ちてきた。
見上げると、例の灰色集団が器用に岩壁に張り付いて、続々と降りてきている。
そのあまりのしつこさに、フィオランは目眩を覚えた。
「なんだってあの人たちは、こんなにしつこくきみを追ってくるんだい?」
「俺が知るかよ!」
「聞いてみればいいじゃないか! 巻き添えになって殺されるなんてあんまりだ」
「殺されはしねえだろうよ。俺を捕まえてどこかへ連れて行きたいみたいだから」
「それはきみだけだろう? 関係のない僕の身は大丈夫だと何の保証もないよ」
それもそうだ。
珍しく相手の動きを細かく読んでるじゃないかと感心した瞬間、自分たちがいるオリーヴの木に異変が生じた。
突如樹の幹に深い亀裂が入り、根元から一気に夜空へ向けてパックリと大きな口を開けて裂けたのだ。バリバリと凄まじい音を立てて裂け、二股となった大木の向こうに刺青男が立っていた。
明らかにこれは自分への威嚇だ。
それともわざと敵愾心を煽っているのだろうか。
「脅しか? 黙って言うことを聞かないと俺も真っ二つにされちまうってわけか?」
ベヒルは震えてフィオランの背後に回り、服にしがみついている。
隙を見てこいつは逃がしてやらなければならないと覚悟を決めた。
「我らの念を集めるとこのようなこともできる。おまえは我らを少々見くびっているようだから」
男は両手を広げ、低く歌うように言った。
「おまえにはこれ以上の力があるのだよ、フィオラン」
「……なに言ってやがる。それに婆さんはどうしたんだ。老人は労わってやらなきゃいかんのを知らねえのか」
「心配はいらない。決着がつく前に彼女は逃げた」
「逃げたあ?」
川に飛び込む際の、あの気合の入った後姿を見た限りでは、燃え尽きるまで戦い抜くといった意気込みだったので拍子抜けした。
「モーラの希代の巫女メリュジーヌは、雲隠れの名人でもある」
気がつけば、男は体の前で密かに両手を複雑に組み合わせていた。
その場を離れるにはもう遅かった。
「我が名はイアン。おまえの同胞だ。己の運命を知りたくば、我らと共に来い」
再び両足が地面に縫い付けられたように動かなくなってきた。
視線を巡らすと、頭巾の男たちがまた円陣を組み始めている。
ベヒルはガタガタ震えてフィオランから手を放し、足元に蹲っていた。
「おい、俺から離れるな」
なぜだか、さっきはベヒルには術はかかっていなかった。様子からして多分今もそうだ。だが、頼みの綱のベヒルがいなければ切り抜けようもない。
フィオランは焦った。
「この連中に追われているのか?」
不意に女が割って入ってきた。
女の存在を忘れていたフィオランは、木のように細くて丈高い後ろ姿を目の端で捉えた。
女はイアンと名乗った刺青男と対峙していた。
イアンの目が興味深そうにチラッと光った。
何か価値あるものを発見したかのような目付きだった。
「そなた、もしや……」
「この痴れ者。これは仕置きだ」
にべもなく女は言い放ち、片手を振り上げた。
鈍い地鳴りを立てて、何か曲がりくねったものが固い地面を突き破った。
幾つもの木の根だ。巨大なミミズのごとくにょろにょろと地上へ這い出て、男たちへ四方八方から襲いかかる。
太い木の根に捕まり、空中へと振り回されて沢山の悲鳴があがる中、イアン一人が抜きはらった剣で木の根を次々と切り落としていった。
刺青をした口元を皮肉に歪ませる。
「こんなもので俺をどうにかできるとでも」
「そうか?」
女は笑い、両手を軽く広げる。
すると、地面に転がるありとあらゆる大小の石が突然浮き上がり、無数の飛礫が竜巻となって男をぐるりと囲んだ。
超高速で回転する飛礫のカーテンの風圧は凄まじかった。
少し離れた場所にいるフィオランたちでさえ、油断すると引き込まれそうになるほどの吸引力だった。
ましてや、その竜巻と化した内円であれば、触れたら最後、一瞬にして挽肉化する石刃の壁に触れずに立っていることなど常人にできようはずもない。
ところが、イアンは頑丈な体幹と魔力を総動員して、あっという間に吸い込まれてみじん切りになる惨事を防いでいた。
だがそこまでだ。
さすがにイアンは立ち往生している。
この生まれて初めて見る超常現象に、フィオランもベヒルも目を剥いた。
何が起きているのか、さっぱり理解できない。
放心している二人に、女は鋭く声をかけた。
「ぼさっとしている場合か。さっさと逃げろ」
女はマントを羽織り、皮袋を肩にかけて悠々と歩き出した。
その背後では、飛礫の竜巻の勢いは衰えず、木の根に締め上げられた男たちの断末魔が絶え間なく続いている。
二人はぶるりと体を震わせて、女の後を追った。
「あ、あの人たち、殺してしまうんですか?」
おっかなびっくりベヒルが勇気を奮い起こして、背の高い女に尋ねてみた。一応、聖職者として見逃すことのできない行為だ。
女は歩調を緩めず答えた。
「樹木に敬意を払わない輩は懲らしめる。それだけだ」
「つ、つまりそれは?」
「命は取らないってことだろ」
フィオランは女の意を汲んだようだった。
「で、でもあのままじゃ死ぬんじゃあ……」
「一日ほどで収まる」
一日も……。
想像して、二人は黙り込んだ。
うんざりする奴らだが、少し気の毒かもと思った。
「ああいう輩に同情するとは人がいいな」
女が振り向き、微笑んだ。
月光に照らされて、白い顔が浮かび上がる。
二人は息を呑んだ。
夜空に君臨する一等星のごとく、銀の瞳が煌めいている。
印象的な、夢のように麗しい顔がこちらを見つめていた。
~次作 「 1-3 月夜の麗人③ 」 へつづく