俺のFIRE漂流記④(お仕事小説)
工程4 FIREへの道、みえたり
1、助言は頭に残らない
ブックカフェの正式な名は『KINEカフェ one day』という。ここで過ごす人々に『特別な1日を』という思いが込められているそうだ。
俺はあれから毎週のようにここを訪れている。あまりにも足繫く通うものだから、ここのマスターとすっかり仲良くなってしまった。
マスターの名は平内順平。オーナーである杵柄嘉臣のなんと、元上司だったという異色の組み合わせだ。杵柄嘉臣の前職って、たしか証券会社と聞いた気がする。これは何かあれだ。ドラマの匂いが嗅ぎ取れて、うかつな質問をぐっと堪えたものだった。
「僕がね、受け持っていたグロース分野で顧客に大損させちゃって、ファイヤーになっちゃんだよね。ある日、本社からやってきたアメリカ人上司に『ユア ファイヤー!』って名指しされてしまって、その場でクビだよ」
顎髭スタイルがよく似合う50代前半のマスターは、当初の印象とは違ってとても気さくでノリのいい人物だった。俺が気兼ねして聞けない情報を、早い時点からこともなげに聞かせてくれた。
後で知って驚いたが、国内で上位3位に入る有名な外資系証券会社に勤務していたという、俺から見ればスーパーエリートの人たちだ。それまで金融の世界で精魂こめて働いてきたマスターは、その一件で壊れてしまったという。悪いことは重なるもので、職を失ったと同時に、20年連れ添った奥さんとも離婚し、2年ほど引きこもり生活を続けていたと本人は明るく語った。
「ある日インターフォンが鳴って、画面を見たらオミくんが立っているわけ。そのまま無視していたら、本を1冊取り出して、画面越しに見せてくるんだよ。僕、本を出したんですって突然のたまった」
そのときの本がこれね、とカウンターの横に立てかけている1冊の単行本を指差した。
『きみたちの人生はどこにある?』という、白地に黒い楷書体のタイトルだけというシンプルすぎる装丁だった。
「そして玄関先でこう言ってきた。僕と一緒に僕の地元でブックカフェをやりませんか? オーナーは僕であなたは雇われ店長です、と。2年ぶりに前触れなくやってきて、いきなり何言ってんだこいつと呆れて、思わず鍵を開けて家の中へ入れちゃったよ。ついでに半ゴミ屋敷化していた掃除もさせたけどね」
それが5年前のことだ。当時を思い出したのか、マスターは腕を組みながらくっくっと笑っている。
杵柄嘉臣はかなり優秀なトレーダーだったらしく、彼が突然退職すると辞表を出した時は随分と引き留められたらしい。退職の理由はマスターもよくわからないという。本人もよくわかっていないんじゃないかと、耳を疑うことまで言ってきた。
「理由なんてひとつだけとは限らないんじゃないのかな。たくさんありすぎて、これが理由です! なんていつでも簡潔に説明できるものでもないと思うし。僕もそうだから」
このエピソードを聞いて、なぜこの店の空気が肌に合うのかわかったような気がした。区切りというものがないんだな。囲う、という見えない概念もない。すべてが個の意思や主体に任せている。今の俺にはありがたい場所なんだ、ここは。それが通い始めて二週間も経たない頃からわかり始めた。
今日は杵柄嘉臣の姿が見えない。少し残念だったが、一昨日から九州の個人書店仲間のところへ応援に行っているのなら仕方がない。アイスコーヒーを飲みながら、マスターお勧めの投資に役立つ本を読み始めた。最近ずっと続く俺の日課だ。
「そうそう、昨日柔道くんが来てくれたよ。部活が早く終わったからと言って寄ってくれたんだけど、オミくんがいないからすぐ帰っちゃったよ」
「へえ、知らなかったな」
何も言ってなかったな、あいつ。まあ、中学生で、ましてや男のコなら親にいちいち報告する歳でもないが。あまり深く考えずにスルーした。
それより、俺の頭の中は今成果を出しつつある株取引で頭がいっぱいだった。俺は5月の勉強会後すぐに株式投資の勉強を始めた。おやっさんに金を貸してすっからかんになくなった俺の僅かな資産。すっかり勤労意欲が失せてしまったが、加勢のお陰で火が付いた。男の醜いやっかみが動機なので人に言えたものではないが、こういう黒い欲望はガソリンのように爆発的な動力を与えてくれる。負けたくないという一心で、俺は資産構築という世界に飛び込んだ。この時点で、せっかくの杵柄嘉臣のあの助言は、頭の片隅に遠く追いやられてしまっていた。
自分は何を目指しているのか。決まっているだろう。もちろん、金だ。
とにかく金を儲けて、不条理に働かずに済む環境を手に入れるのだ。投資なんて、それしかないだろう。
2、焼肉と悪魔談議
俺の家は、ピロティ式の3階建ての造りになっている。1階の半分は駐車スペースであり、支柱で階上を支えて空間を生み、そのピロティから裏に広がる庭へと抜けられる。この空間は我が家に訪れる人たちからかなり好評で、俺のお気に入りの場所のひとつでもある。
そのピロティ内で焼き肉の煙がもうもうと立ちあがり、俺は咳き込みながら黙々と肉を焼いている。この、目の前で歯を剥きだし笑いながら、ちらちらと網の上を確認している者どもの腹を満たしてやるためだ。
義母、義父、義理の姉夫婦にその子供3人、そして我が息子に元妻。
なんだこの構図は。おかしいだろう、と毎度思いつつも定期的に繰り返されている行事となっている。
なんせこいつらときたら、とにかく動かない。屋内ではきびきび動くのに、一歩野外でのイベントとなるとお客さんになるのだ。急に、アウトドアなんてそんな大層なモノやったことありません、なんて顔をして素人アピールをしてくるのだ。それで自然と俺の役目となった。俺の顔つきが野生系だからか? でも肉ぐらい焼けるだろう。
「吾郎ちゃん、そんなお肉ばかり焼いてないで、自分もちゃんと食べて楽しんでね」
いつも悪いわねといった具合に、義母がお喋りの合間に声をかけてきた。
煙に覆われてよく見えないが、今シュッと割り箸が、まだあまり火が通っていないラム肉を取っていったような気がする。
「ちゃんと楽しんでますよ、これで」
心の文句を止め、片手に持つビール缶を掲げてみせた。
「吾郎君、いつも悪いね。でもさすが手慣れてるよね。段取りも何もかもあっという間に済ませちゃって。すごく器用だし。ほんと、何を手がけても、そつなく見事にこなしちゃうようなあ。なんでもできて、すごいよなあ」
義理の姉の夫、長谷孝明が奥の庭を眺めながら話しかけてきた。眼鏡に油やら焼肉のタレやらがこびりつき、すごいことになっている。
「特に庭なんか、もう最高よねえ! 凛々子が設計したとはいえ、作ったのは吾郎くんなんだから。もう庭師になった方がいいっつーの」
義理の姉真美子はそうとう酔っぱらってるな。まだ日が暮れて間もないというのにペースが早すぎないか? その隣で、小4、小1、年少さんのチビッ子3人組(全員男子)が煙にまかれないよううまく避けながら、割り箸を手に持ち、肉が焼けるのを待ち構えている。そう、俺はこいつらの胃袋をまず満たしてやらなければならないのだ。その内の小1奏がシュッと動き、肉を掴んだ。
「おい、まだナマ焼けだぞ」
声をかけた俺に、義母が「奏はおばあちゃんに似たのよねえ」とのたまった。そこは似るところじゃねえ、と心の中でつっこむ。腹をこわすだろうが。
「なんか吾郎くんって、前世は苦行僧だったんじゃない? て時々思うんだけど」
「なにそれ」
「煙にまかれててもちっとも動じてない。少し眉間に皺を寄せるくらいでさー。ほんと、何事にも動じないよね」
「動かざること山のごとし」
「ぎゃはははっ! 燻されすぎて、苦行僧からミイラになっちゃうね」
聞こえてるんだよ。真美子、凛々子よ。煙に覆われていても壁じゃねえんだから、声は筒抜けなんだよ。今日は土曜日とはいえ、夜なのだから酔っ払いの大声は自重してもらいたいものだ。季節は夏で、窓を開けている家も多い。
前にも少し触れたが、隣りは元妻の実家である。元々あった妻の実家の隣りに、俺たちは家を建てた。広かった敷地を半分譲ってもらったのだ。そして離婚してしまったが、普通出て行くのは俺のはずが、何故か残ることになった。家の権利も俺に残った。離婚の理由は、簡単に言ってしまえば価値観の不一致によるもので不倫が原因ではない。だから、どちらか一方に権利の制限がかかるわけでもない。
俺は凛々子へ家の権利を譲ってもいいと思っていた。凛々子の方が経済力もあるし、柔道と二人でこの家で安心して暮らしてほしいと望んでいたが、本人は辞退をした。俺の方がこの家に残るべきだと言った。俺の方がこの場所も柔道も必要としていると。なぜそんなことを言ったのか、まだその真意を汲めていない。
凛々子はいつも答えを明確に伝えてこない。言葉を投げて寄越して、考えさせるのだ。意地が悪いと思う。いつも考えて正しい答えを導き出さなければならないのは俺の方だった。
離婚したからといって、俺たちの関係は大して変わっていない。ただ生活を共にしていないというだけで、子育ては常に話し合いと協力体制の2本立てで行っているし、週に1度は飲み食いしながらお互いの近況報告をするという交流をしている。それをサッチャーには子連れ者同士の婚活みたいねと評され、おやっさんは目を白黒させていた。
腹がくちくなったのかチビッ子どもが遊び出したので、俺は取り皿に数種類の肉と野菜を盛って奥の庭へ向かった。庭は家の裏手にあるので横に長い。間口三間、向こう二間の広さで、イングリッシュガーデン風に設えた自然派志向の庭だ。桜チップを敷いた道と植物しかない。置物や照明やラチスパネルや棚やらの人工物はあえて置かなかった。花と木とグリーンと石だけで完結した世界。どこに何を植えてどう見せるかは凛々子がデザインをして、俺はそれを忠実に実現しただけなのだが、この庭を訪れる人は皆、褒め称えてくれる。確かに目に麗しく、居心地がいいのは確かだ。
俺が一番のお気に入りの、家屋のリビング側に小じんまりと鎮座するアカマツで作ったベンチに、柔道はいた。家の中からクッションを大量に持ってきて、布団のように並べて埋もれていた。
俺はベンチの前に置いた折り畳みテーブルの上に皿を置き、小山からクッションを数個どけて、尻をねじ込んだ。尻に当たった細いつま先が、渋々のように引っ込む。
「……寝てたんだけど」
「持ってきてやったんだけど」
口真似をして返したら、少しだけ笑い声がクッションの下から聞こえてきた。
「もうーなんだよ。ふざけてるってことは酔ってるしょ、お父さん」
「いや、たいして」
「お父さんにしては酔ってる方だよ」
「たいして」
「それになんか臭い」
そうか、臭いか。ならばこうしてやる。俺はTシャツの裾を捲り、柔道の方へ勢いよく仰いでやった。煙で燻されまくった匂いはなかなのものだからな。クッションに埋もれていても、不快な臭いというものは執拗につきまとうというものだ。とうとう柔道は笑いながら顔を出した。部活焼けした黒い顔が、はねのけたクッションの隙間から覗いている。凛々子によく似たアーモンド形の綺麗な目が、怒って三角になっていた。
「お父さんってさ、時々馬鹿みたいに子供くさいことするよね。さっきの座り方もそうだし」
「俺はいつだって心は中学生だからな」
「都合のいい時だけ子供に還らないでくれる?」
怒ったふりをしてクッションを投げつけてくる。俺も投げ返し、しばらく至近距離でクッションを投げ合った。
「肉食えよ。おまえの好きな肉ばかり選んで持ってきたんだぞ。しっかり火を通して」
気が済んだのか、クッションを投げるのをやめて大人しくなった頃合いで、声をかけた。最近、柔道はこういう集まりに進んで顔を出さなくなってきた。無理に来いとは言わない。俺にもこういうところがあるので、なんとなく気持ちがわかる。わかるような気がしているだけかもしれないが。
それでも、家の中に籠らず、こうして集団に交わらずとも、離れた場所で賑やかな会話を聞いてくれているだけで充分だ。それに祖父母や伯母たちに会えば、きちんと挨拶もするし会話もする。
「……おにぎりも欲しいな」
忘れていたな。育ち盛りには米は必須だと立ち上がりかけたところ、凛々子が山盛りの握り飯を持って立っていた。少し離れたところで俺たちのじゃれ合いを見物していたようだ。誰も見ていないと思って油断していたので、少し気恥ずかしかった。柔道の場合はもっとバツが悪かったようで、かなり本気で怒りだした。
「なに! そういうのやめてくれよな。陰から息子をそっと見守る母親の図って、朝ドラみたいですごくやだ!」
凛々子は急に怒り出した柔道に目を丸くしている。いきなり当たり散らされて、腹を立てるどころか、「朝ドラに失礼な言い草じゃない」と鷹揚に返したので、余計柔道をいらつかせたようだった。
柔道はそれまで寝そべっていたベンチから起き上がり、凛々子へつかつかと歩み寄った。これはついに家庭内暴力か? と見守っていると、凛々子が持つ皿からおにぎりを2つ引っ掴み、テーブルにある自分の肉皿へ強引に乗せてそのまま家の中へと引っ込んでいってしまった。リビングの掃き出し窓からサンダルを脱ぎ捨てて入っていく後ろ姿を見送りながら、俺は首を傾げた。思春期真っ只中とは思えないくらいに、理想的なほど母親と仲良しだったはずなのに。あんな反抗的な口を、凛々子へ向かって叩いている柔道を初めて見たぞ。
「あいつと喧嘩中なの?」
「あたしは身に覚えがないけど。ここ最近、ずっとあんな感じだよ。気づかなかった?」
自分で問いかけておきながら、やべえと俺は首を竦めた。
「……気がつきませんでした」
「見た感じ、ゴロちゃんにはそうでもないみたいだけど。男だから、思春期だから、って単純に捉えないでちゃんと見てくれているよね?」
「一応……見ている」
俺の弱々しく答える姿をじっと見下ろし、凛々子は小さくため息をついた。おにぎりの皿をテーブルへ置き、それまで柔道がいた場所へ今度は凛々子が居座った。
「ゴロちゃん。2年生になってから、あの子様子がおかしいんだよ。学校で何かあるみたいなんだけど、聞いても何も言わない。何か問題が起きているわけでもないから、あたふたと周りで騒ぎ立てるわけにもいかない。でも、傍観して放っておいていいものでもないんだよ」
「うん……」
凛々子の指摘が耳に痛く、こんな返事しかできなかった。返す言葉もない。多少何かあったとしても、そういうお年頃だから。そんなものは時間と一緒に流れさて行くだろうと、安易にそう考えていたところが確かにある。自分もそうだったから、と。
「あの子、友だちいないみたいなんだよね」
ぽつりと凛々子が呟いた。とても寂しそうに。
「それは俺もなんとなく気づいていた」
だからあの5月の勉強会以来、頻繁に柔道はブックカフェへ通っているのだろう。俺と一緒に行くこともあるが、俺には告げずに黙っていくことの方が最近は多い。凛々子には俺から報告してあるので、その件は承知済みだ。
「あたしからゴロちゃんの手にようやく移ってきたということだよ。息子の取り扱いが」
頼んだからね、と少し凄まれた。
「あたしがどの面下げて言うんだって思うかもしれないけど、自分のことばっかりはダメだよ。何かに夢中になるのはいいことだけど、ジュドーを忘れないで」
「そんな風に見えるのか?」
ぎくりとした。凛々子には投資のことを詳しくは何も言っていないのに。
「見えるねー。だって目がギラギラしてるじゃん。乗ってるときのゴロちゃんのサインでしょ。2か月前まではゾンビだったのに。周りから言われてない?」
……そういえば。この間、現場で大工の末吉さんから、傍に近寄ったら「いてえっ」とからかわれた。あれはそういう意味だったのか。
「そういうときのゴロちゃんて、周りが置いてけぼりになるからね。もっと自覚してよ」
「はい」
神妙に頷く俺に、凛々子は「あ、そうだ」と思いついたように、羽織っているウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込んだ。どんだけ深いんだか、中から手品のように500mlのアルミ缶のビールを取り出し、俺に渡してきた。すっかりぬるくなっている。
「ごめん、忘れていた。さ、飲むか。肴に、ゴロちゃんの成果とやらを聞いてやるよ。ほら、話して話して」
もう片方のポケットから自分のビール缶を取り出し、凛々子はプルタブを引っ張る。ぬるくなった泡がぷしゅぷしゅと頼りなげに溢れ出てきた。わざとふざけた調子で話を促してきた凛々子に、俺は便乗させてもらった。勘と頭のいい女というのは、時に楽でもあり厄介なものでもあるね。
one day タタビト会のこと、杵柄嘉臣や会のメンバーたちのこと、そしてデイトレ―ダーの加勢勇人の話も織り交ぜて、自分の今の投資状況を説明した。少し咳をしながら、黙って凛々子は聞いてくれた。ひと通り話し終わると、奇妙なことを言ってきた。
「悪魔に捉まっちゃった? ゴロちゃん」
悪魔? 世間一般的な、昔ながらの『金儲け=悪』という図式か? そんな普通なことをいうヤツだったか?
「悪魔はおまえだろう」
鼻で笑って流された。なんなんだよ、もう。
「悪魔は優秀なビジネスマンだって知ってる? 自分の中の欲が商材なの。うまく付き合って、一緒に手を組んでやっていった方がメリットが大きいんだよ。この三次元の世界では」
「なに言ってんだ、おまえ。スピリチュアルにでも目覚めたのか?」
ぐびぐびビールを飲みながら聞いていると、凛々子は笑いながら言った。
「ただ、引き込まれすぎると危ないからね。調子に乗りすぎると、ぱっと手を離される。いつ手を離されてもいいように、自分をよく見ていることだね」
「へいへい。悪魔に詳しいんだな」
凛々子は一瞬黙った。
「まあね。こうみえて、けっこうバトルしてきたからね。あたしの悪魔と」
そして、蒸した7月の夜だというのに、襟まで立てたウィンドウブレーカーを着こんだ身体をぶるりと震わせる。
「寒いのか? もしかして夏風邪引いたか?」
「……まあね」
また少し咳き込んでいた。余り調子がよくなさそうだったが、凛々子は珍しく上機嫌だった。随分と久しぶりに俺たちは夜更けまで話し込んだ。
3、上昇、くる
それは午前中に起きた。
ノマドランドも日本の株式市場も夏季休暇が明けて、活気よく動き出したと思っていた矢先のことだ。
設定していたスマホの通知が、尻のポケットで鳴った。ちょうどもう一人の事務担当、Z世代登藤蕾に請求内容について説明をしているところだった。これはあれだ、株価上昇のお知らせだ。カン、というひとつの鐘を小さく設定している。俺は登藤蕾に手早く説明を終え、いったんフロアから出た。
スマホを操作しながら、一つ上のフロアのトイレへと向かう。この俺の勤務態度は大変よろしくない。職務放棄と怠慢に当たるだろう。ついこの間までの俺には考えられない行為だ。
個室に入り、便座に尻を落ち着けた。ネット証券の画面を開くと、特別にひとつに絞って通知設定をしていたある銘柄が大変な動き方をしていた。
8月上旬頃まで……つまり、ついこの間までは長らく低迷していた株価がみるみる内に上昇している。どうしたのかというくらい買いまくられている。
保有している銘柄の企業情報は毎日チェックをしているが、特に動きを予測させるような特別なニュースはなかったはずだが。
この銘柄は先月、短期トレード目的で保有したものだった。俺は5月から始めた短期トレードで、目星をつけた銘柄を手にいれて小額から恐る恐る1か月回してみた。加勢やマスターに指南してもらった通りにやってみると、驚くほどうまくいった。初めて短期トレードで10万円を稼ぐことができた。
嬉しくなった俺は、6月に出たボーナスをつぎ込み、更に額を増やして銘柄漁りをした。入金が大きいと資産が増える速度も増す。当たり前のことを現実に体感し、俺はさらに調子にのった。ひとつの銘柄にしぼり、全額投入して大きく増やしてみようかと。
目星をつけたのは、去年の12月から新規株として市場入りしたあるグロース株だった。不動産リース系の企業で、業務内容が面白いと思った。新規株は登場直後は投資家がこぞって買うので値上がりするが、いったん落ち着くと正常な値にまで落ちる。御多分にもれずこの銘柄もそうで、5月末時点では2000円台にまで落ちていた。それが6月に入るとどんどん値下がりし、7月には1000円すれすれにまで落ち込んだのだ。俺はそこで買い込んだ。20単位株。
そう、俺はこの数か月で200万以上稼いだのだ。誰にも相談しなかった。
株を始めたド素人だからできた買い方なのだろう。待てば、必ず近いうちに株価はまた少しずつでも上がっていくだろうと期待した。その間、数十万残した資金でまた別の銘柄で増やせばいいと思っていた。それが、まさかこんなに早く反応が出るとは…。1分足チャートでは、赤い線がずっと登り調子だ。10分ほど様子を見て、俺は静観しようと決めた。
「係長~、ずーっと待ってたんですけどお。待ちくたびれましたあ」
戻ると、Z登藤が口を尖らせて文句を言ってきた。隣には、いつも午前中社内にはいない小出裕也がへばりつくように立っていた。……近すぎないか? 俺の姿を見るやいなや、小出は教師を見た生徒のようにささっと自分の席に戻っていった。
「ごめんな、ちょっと腹を壊してて」
「やだー、そういうこと言っちゃだめですよお」
けらけらと弾けたように笑う様子を、離れた席から小出裕也がチラ見している。小出、おまえの恋心だだ洩れだけど大丈夫か? あまりにも無防備で丸わかりなので心配になった。まあ、こんな喋り方だが、この子は韓国アイドルばりで可愛いし、仕事が非常にできる優秀な事務員だ。そうなるのもわかるさ。だが、俺にはわかるんだよ。悲しいことに、おまえはZ世代登藤蕾の眼中にまるで入っていないことを。可哀相にな、相手にされないって。そんなことを考えながら、俺はもう一度丁寧に登藤蕾へ指示を出した。
その日、午前中の早い段階で、例の銘柄はストップ高で終了した。
翌日、そのまた翌日。毎日株価が高値で更新されていく。俺はそれでも動かなかった。短期トレードなのだから、一部でも売って儲けを出してもよかったのだが見送った。何か予感がした。それに、どうやら外国系の投資家集団が動いているという情報も知ったからなおさらだった。株価操作が行われているかは俺の知識では到底わからないが、何らかの意図によって起きているのは明らかだ。見守り続けて、1か月と16日。株価はついに、9000円台を突破した。そして俺はそこで全株を売却した。
~次作、「工程5-1 奢れるもの、ひさしからず(前編)」へつづく