初めてビリになった日
ビリを取ったことがなかった。
かけっこはわりと速かったし、マラソン大会は朝練を積み重ねて、切り抜けた。体力測定は大得意。試験なんかも、できる方ではないけれど、まあ及第点。
しかし、三十半ばをすぎ、立派な大人になって初めてビリを経験することになる。
やちむん売りになってから、年に数回は東京の百貨店で催事をやっている。
商売人だからか、性格的な問題か、つい商品を入れすぎる。売り場を楽しくするには、物量だと信じているふしがある。加減をしたくない。
9年前の「銀座 手仕事直売所」で友達への贈りものを探しているひとりのお客さんが、うちの店を見た後、会場をぐるっと回ってから戻ってきてくれた。「やっぱりここが一番楽しいから戻ってきました」とおっしゃった。その言葉をいまも目指している気がする。ワクワクする売り場。
催事は最終日には2時間ほど早く終わり、売り場の撤収が始まる。持ってきた商品をすべて包んで段ボールに詰める。とくに沖縄に戻すものは、海をこえることもあり、かなりしっかり梱包する必要がある。「銀座 手仕事直売所」では初めて出店した時から、常にビリ。ダントツのビリなので、うちのスタッフだけでは遅すぎるので、百貨店の社員さん総動員、近くの売り場の人まで手伝ってくれる。「はい、7時になりました。閉店まであと一時間!」掛け声のプレッシャーは半端ない。それでもビリ。
すべてが終わった後、「ギフトショーではビリを取らないように気を付けます」と担当バイヤーに言ったことがあった。まさか、それが現実となることも知らずに…。
沖縄県の助成金を貰った時などは、成果を発表する場としてギフトショーに出店する。一年をかけて、いくつもの工房の親方たちと厨子甕プロジェクトをやっていた年も、ギフトショーに出店することになった。ほんの1ブース。商談の場なので、狭いスペースにどれだけ商品を並べ、沖縄の手仕事の魅力を伝えるか。そう考える。しかもこの時は、厨子甕(骨壺)が大量にあった。割れるわけにはいかないので、丁寧に頑丈に梱包する必要がある。
そして最終日、今思えばあらゆる判断を誤った。そして撤収準備が殆どできないまま、そのの時間はやってきた。
スタッフは三人。沖縄からやってきた社長と店長、わたし。少し遅れて、助っ人の友人ひとり。社長は撤収になれていない。店長が私の態度が気に入らず、仕事をしなくなった。こうなると、もうどうにもならず、量が多いのに、包む人が足りない。ガムテープとプチプチの無駄遣いがたたって、梱包資材が足りなくなった。探しにいって、知らない人に分けてもらう。放置されたプチプチを拾ってくる。時間だけが、ただ、ただ経過していく。
そして気づくと、ギフトショー会場の西館の中に残っているのが、うちのブースだけになっていた。壁があるのがうちだけ…。カーペットの業者さんがやってきて「そろそろ、はがしてよいかな?」と聞いてくる。運送業者さんが「あれー、まだ終わっていないの?」と。言われる度に焦りだけがつのり、動きがにぶり、負のループ。
全てが終わった時の脱力感。ボロボロな気分で西館を出ると、出店者は誰もいない。残っているのは撤収業者さんだけ。しかも西館だけではなく、東館もすでに閉まっていた。西館ビリだと思っていたら、ギフトショー全体で本当のビリだったことに気づいた瞬間だった。その時の無力感といったら…。
かなりの年月、この屈辱の出来事は、私のトラウマとなった。でもまた撤収はやってくる。もう二度とこんな失敗はできないと心に誓ったこともあり、次のギフトショーの撤収は余裕でおわり、今では催事の撤収でビリを取ることもなくなった。
数々の撤収から学んだのは、段取り。撤収が始まる前に、やりやすくなるようにしっかりとした準備をする。伝票、梱包資材、人員の確保。それぞれのスタッフの向いていることをやってもらう人員配置。始まったら、自分が率先して包むのではなく、あくまでも指示を出す側に回る。全体の進行具合を俯瞰して、足りないところに自分が回る。常に時間を意識する。常にリーダーであれ。
ビリをとった後、打ち上げでご飯にいくと、さっきまで何もやらなかった店長がご機嫌だった。すごく楽しそう。戸惑う私。あとで社長がその三日間の仕事に対する態度を注意したところ、その理由はホームシックだったという。沖縄で旦那さんと娘さん二人と暮らす彼女は、3泊4日の東京出張が寂しくて辛くて、耐えられなかったそうだ。初めてのギフトショー。すさまじい人が行きかう商談の場。ちかくには社長が常にいて、そこに私のきびしい指示が…。東京でひとり暮らしをしている私にはわかりようもないプレッシャーだったのだと、今なら理解できる。今ならね。
※画像はビリを取った時の証拠写真。本当にふくら舎のブースしかありません。戒めの為に撮ってみました。
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