一匹狼でありたい
「民藝が好きなんだね」
そう指摘されるまで、まったく気づかなかった。民藝という言葉を認識していたけれど、まったく気に留めておらず、自分が好きなものを集めて囲まれながら暮らしていたら、たまたまそれが民藝と括られているものであることを知った。
それからすこし経ち、白羽の矢が立って、沖縄クラフトの店、ふくら舎の仕事を始めた。百貨店の催事が決まっていたので、その交渉と商品の手配が最初の大きな仕事。沖縄の手仕事を全国に届けるための自己流のうつわや人生が始まった。
一から始めるということは、勉強することも吸収することもいくらでもある。知識がない分、先入観もない。何を良しとするかも自分で選べる。
手探りではあるが、面白い。
仕事をする上で、いつも「民藝」という言葉にぶつかる。
美しき日本の手仕事、それを言い表す言葉として。催事のタイトルや、目指すイメージで、雑誌の特集で、トークショーのタイトルで。ありとあらゆるところで、その言葉と出会う。
でも私の中では、なぜかしっくりこない。
もちろん、柳宗悦らが提唱した民藝運動やその概念はすばらしい。多くの手仕事が発見され、世に知られることになったし、価値を見出された。作り手たちのつながりも生まれ、日本各地の窯場や産地が注目された。沖縄もそうやって発見されたとも言える。
しかし、いま世の中で認識されている「民藝」は何かが違う気がしてならない。
民藝館は貴重なものを見られる場所なのだけれど、用の美、使ってこその美しさなのに棚の中にしまわれて、「触らないでください」と飾られていることに、違和感がある(保存の必要性はわかるものの)。悲しくもなる。
書籍を例にあげれば、「これは民藝ではありません」と“教科書”と銘打って教えることとも思えない。トークショーで語られる内容をメモする人たちを見ながら、(こんな語られつくした言葉の何をメモするんだ?)と疑問を感じる。
手仕事の良さというものは、誰かに教えられて理解するものではなく、自分で手仕事によって作られたものにふれて、感じ、学んでいくものだと思う。勉強は自分でするものではないだろうか?
つるむのが嫌いな性分。ふくら舎も業者ととして、同じスタンスでいる。
沖縄の作り手同士をつなぐプロジェクトは、ふくら舎が中心となっていくつか実施してきた。厨子甕復活プロジェクト、白土の研究、温故知新プロジェクト。それぞれ一年ずつ、一つのテーマで、それぞれの工房が研究し作陶する。でもそれはつるむのとは違い、沖縄の作り手同士の交流であり、沖縄の伝統やそこから生まれる未来のための時間だったと思う。普段あまり話すこともない作り手が、それぞれの方法を語り、より良いものを目指す。プロジェクトは終わっても、一人で黙々と続けている親方もいる。
沖縄クラフトの仕事を始めて10年が経った。全国の手仕事も少しずつ始めている。でも、つるむことができないし、やっぱり一匹狼でいたいと思う自分がいる。
画像は仕入れたやちむんの洗いの作業。すべても器を洗って、乾かしながら検品を行う。
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