農業事件簿〜ガルトネル事件 1
シーズン8 ガルトネル事件
ガルトネル事件とは…
幕末から明治初期にかけて、函館(箱館)で起きた開墾地 租借契約…つまり、農地として開墾予定の土地契約についての外交上の事件。租借とは、その国の土地を一定期間、他国に貸し与えて統治をさせること。
舞台:開拓期の北海道・函館(箱館)。
登場人物:ガルトネル兄弟。
兄/リヒャルト(ライノルト)・ガルトネル/プロイセンの貿易商
弟/コンラート・ガルトネル/クニフラー商会(現:イリス/ドイツ製機械輸入の専門商社)、同商会箱館代理店店長&駐箱館プロイセン副領事。
ガルトネル事件は、単なる外交事件というだけではなく…
日本における西洋式近代農業の始まりとも関係している。
舞台となるのは。
北海道亀田郡七飯町(ななえちょう)、函館市の隣。大沼公園の所在地。
西洋りんご発祥の地と呼ばれ、今でも特産品はりんご。
この地に西洋りんごの苗木と、近代的な農業器具&営農方法を持ち込んだのが、リヒャルト・ガルトネル。故に、西洋式近代農業発祥の地とも呼ばれる。
ガルトネルは、日本の農業近代化に貢献した人物と言える。
しかし、大いに揉めた人物でもある。
ガルトネル兄弟。そして日本・プロイセンの外交関係
プロイセンの貿易商リヒャルト・ガルトネル。1863年(文久3年) 来日。
日本でヒトヤマ当てようかくらいの野心あったかも。
元々は生糸ビジネスを目的に日本へ。
箱館を拠点とする。
アフリカで農園経営の経験あり。
農業の知識は豊富だったらしく、生糸ビジネスを進めながら、農業ビジネスに興味あり。
一方で、弟コンラート・ガルトネル。1862年(文久2年) 兄に先立って来日。
クニフラー商会横浜支社の代表。
ビジネスで横浜と箱館を行ったり来たり。
そのうち箱館支店長となり、更にプロイセンが箱館に領事館を開設。
副領事も兼任することになる。
ここで時代背景の説明。当時の欧米列強と日本との関係
1853年 ペリー来日。
1854年(安政元年) 日米和親条約…下田・箱館が開港。
鎖国(という意識はなかったが)から開国へ…欧米との往来や通商(貿易)に向けた動きが加速。
欧米列強(米・英・仏・蘭・露など)は、帝国主義の全盛期。
スキあらば植民地ゲットを狙っており、アジアでも多くの地域が欧米の植民地。
当然、日本もターゲットであり、各国が日本での権益ゲットを目論んでいた。
そんな状況の中で、プロイセンは新興国としてその他欧米列強に遅れながらも世界進出を図る。
フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵(政治家・外交官)が東アジア遠征艦隊司令官兼全権公使として来日。
1861年(文久元年) 日本・プロイセン修好通商条約を締結(不平等条約)。
クニフラー商会は、既にインドネシア/バタビア(当時はオランダ植民地)に進出していた。
修好通商条約前に長崎へ進出。修好通商条約の年に横浜へ進出。
翌年1862年 弟コンラート・ガルトネルが横浜支社長として来日。
やがて、弟コンラート・ガルトネルが箱館支店長&駐箱館プロイセン副領事を兼任。
兄リヒャルト・ガルトネルは、生糸ビジネスで箱館に拠点。
ガルトネル兄弟が、蝦夷地(北海道)箱館で合流。
ここから事態が動き出す。
日本側の事情
そもそも北海道と日本の関係は?
アイヌの人々は紀元前以前から北海道で狩猟採集社会を形成。
5世紀頃には樺太より北海道へ南下した人々が、アイヌ文化を形作っていく。
一方で縄文時代に、既に本州との文化的交流があったとする説も。
農耕社会を形成していた和人(大和民族)との交流は古くから盛んに行われていた。
江戸時代以降は、北海道最南端(渡島おしま半島)に位置した松前藩と交易(アイヌにとって不平等交易)。
やがてアイヌとの独占交易は、松前藩から幕府直轄へと移行。
幕末、ロシアの南下政策に対する北方防衛の必要性が浮上。
幕府は北海道の開拓とその支配を強めていく。
今でこそ日本の食糧供給基地として農業が非常に栄える北海道。
かつては過酷な自然環境であることから、農業は困難な地域だった…というか、幕末から明治期の開拓使時代まで。この時代の日本の農業技術は、北海道では通用しない。
当時の農業技術はどうしても本州・四国・九州などが基準。
寒冷地対応できない。
北海道は、地質が違う。寒冷地で泥炭地。広大でスケールが違い過ぎる、など。
北海道レベルの寒冷地に対応した農業技術・知識はなく、その環境にあった種苗(作物)もない。
下田・箱館の開港以降、欧米各国の知識人と新しい技術が続々と新天地・日本へ。北海道開拓の必要性に迫られていた…しかし苦戦していた幕府。幕府(日本側)にとって、海外の農業技術は、魅力的な存在。
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