つぶやき日記#26 ー お雑煮からよみがえる記憶
新年明けましておめでとうございます。
大してお正月の用意もしませんが、
とりあえずお節料理を並べ、そして
お雑煮は作ります。
前の晩から煮込んでおいて、
元旦の朝はお餅を焼いて、お雑煮の中に入れる、というタイプです。
今では常識となった、
お雑煮は各地でかなり違うものを食す
という考えですが、
私が小さい頃は、まだ
各家庭でお雑煮の味が違うということはわかっていても、
それをオープンな気持ちで受け入れるところまで
民度が高まっていなかった気がします。
「うちの嫁はちゃんとした雑煮も作れない」
といった批判がけっこう聞かれました。
この「ちゃんとした」というのは、
その家のお姑さんが「ちゃんとしたと思う」かどうか
にかかっていたように思います。
うちでは、
父が茨城県の北の方の出身で、
元日には男が厨房に立ってお雑煮を作る、
というふうに育てられていたので、
うちでもそうなっていました。
子供だったけど、
なんか、普段は料理しない父が、
腕を捲り上げて作ってくれるお雑煮は、
イベント的で嬉しかった記憶があります。
父のお雑煮は、
ほとんどけんちん汁のように野菜やお肉が煮込まれたもの。
ただし、味噌味ではなく、薄口醤油味でした。
もっとも、本来のけんちん汁は醤油味なので、
ほぼけんちん汁でしょうか。
具材を炒めてから煮込んでいたので、
お肉が入っていたけれど、
豚汁というよりけんちん汁だと思います。
父親の料理にはしゃいで喜ぶ子供をよそに、
母は、「こんな田舎の雑煮」と、不満そうでした。
東京出身の母は、
雑煮と言ったら、
焼いたお餅を腕の底に置き、
その上に彩りの野菜やなるとなどを散らして、
すまし汁をかけて三つ葉を載せる、
という感じでした。
母はその頃の流行りで
「家つきカー付きババア抜き」
な人と結婚していました。
自宅とマイカーを持っていて、お姑さんがいない、というのが、
当時の憧れ結婚条件だったわけです。
私は外国人と結婚したので、
「家庭内の文化的衝突が大変でしょう」
などと気にしてくださる方もいますが、
二人以上の人が一緒になる場合、
国籍はあまり関係なく、
相手の背負ってくる〇〇家の考え方、というものに、
衝突するのはどんなカップルでも同じと思います。
うちでは、
正月に関して言えば、
私の演出する「なんちゃって正月気分」を、
夫が「これが正しい日本の正月だ」
と思って従っているので、
いつまでたってもお屠蘇を注いでもらうときに
片手でやるのが少々頭にくる程度で、
特に問題がない、と思っています。
向こうはどう思っているんだか、
知りませんが。
昔の正月は、男も女も和服を着て
女性の中には日本髪を結う人もいて、
美容院は掻き入れどきで、
働き方改革があったとしても休めたかどうかわからない
という盛況ぶりでした。
和服を着ない場合でも、
ちょっといい服を着たように思います。
そして、親戚や仕事先に必ず挨拶に行く。
または、挨拶に来る人たちを受け入れる、
ということを三ヶ日中に終えていました。
我が家の場合、
1日が渋谷にある母親の親戚に挨拶。
母方は、両親が健在だったので、
実家に母の兄弟たちが家族を連れて、
三々五々、集まります。
母は5人兄弟でした。
母方の従兄弟の数は、自分も入れて9人だったと思います。
祖父は事業をしていた人なので、
仕事関係の人たちも一日中、
ひっきりなしに挨拶に来ていました。
和室の続き間には、大きな座卓が並べられ、
一つが私たち家族や親戚用、
もう一つが、
仕事先の人が来たときにお勧めするようになっていて、
常にお寿司の出前が届けられ、
おでんが新しく煮込まれていました。
お寿司屋さんに正月休みはなかったのかしら?
と、ちょっと疑問です。
掻き入れどきだから、営業していたかも。
子供達は好きなだけ食べると、
別室で百人一首や花札をやってました。
花札をやるなんて、と驚かれる方もいると思います。
あるいは、花札でなんで驚くの?
という人もいると思います。
花札は、昔は賭場で行われたもので、
まあ、子供の教育上よろしくない、
と言われたゲームかもしれません。
が、うちではゲームの定番でした。
子供達はおじちゃんやおばちゃんからお年玉をもらい、
両親は同じかそれ以上の額のお年玉を
姪や甥や知り合いのお子さんに渡していたはずです。
で、元日2日が父方の集まりです。
父の親の代は「産めよ増やせよ」と政府が音頭をとって、
戦争に備えさせた時代なので、
10人の子供を産むと政府から表彰されたということです。
父の母も、9人ぐらい産んだようですが、
最後まで育ったのは8人だったと思います。
しかもそのうちの一人は若くして病気で亡くなりました。
正月に、茨城県まで行ったことはほとんどなく、
次男坊以下、東京に出てきている親族で集まりました。
それでも、7~8家族はいたと思います。
そのうちの2~3家族は、私と同じ世代、
つまり、私の伯父伯母に当たる親世代は茨城県にいて、
その息子世代が東京で築いた家庭だったかもしれません。
多分、従姉妹同士の年齢の開きは、
40歳ぐらいあったと思います。
小学生の私から見ると、
おじさんと呼べるような従兄弟もいました。
中には、はとこ、というのもいたと思います。
父や母の従兄弟が私にとってのはとこ、という解釈で
正しいでしょうか。
持ち回りせいで、誰かの家の広くもない8畳間とかに、
軽く30人は集まったと思います。
従兄弟だけでも20人ぐらいいたと思います。
女性たちの大半は、ずっとキッチンに立っているし、
子供達は隅っこで遊びながら食べていたので、
なんとかなったのだと思います。
全員座るのは乾杯の時だけですから。
というように、
昔の正月は賑やかでした。
きっと今でも、こういうふうに一族郎党が集まって、
挨拶を交わすお家もあるのだと思います。
でも、私の場合、
もう従兄弟たちがどこにいるのか、
伯父さんや伯母さんが亡くなってうちの両親も亡くなると、
次第に連絡は途切れ、
わからなくなりました。
うちの子には
ラッキーにもおじさんおばさんにいとこももいますが、
一人っ子が多い次の世代では、
従兄弟という言葉も、
おじさんやおばさんという言葉と同様、
消えていくのだろうなあ、と思います。
「〇〇ちゃんには従兄弟がいるんだって!いいなあ」
という感じかしら。
私は偶然、真ん中っ子なのですが、
真ん中っ子というのも
絶滅危惧種だなあ
と思います。
兄弟が8人いたら、
一番上と下以外、6人が真ん中っ子でした。
戦後の復興を支えたエネルギーは、
真ん中っ子によるところが大きかったのではないか、
と、
勝手に考えています。
真ん中っ子の性格がどうのこうの、
と揶揄されるのも、
真ん中っ子が少数派になったからだと思います。
とはいえ、
やはり、
特殊なポジションなのかもしれません。
親の注意を独占することがほとんどなく育ちます。
そして、
一番上の子が
親との直接対峙を経験しながら生きていくのに対し、
常に横から、
親と長男(または長女)のやり合う姿を観察して育ちます。
「あ~あ、あんなこと言ったら
お母さんが怒るって、まだわからないのかな」
という観察に始まり、
「お姉ちゃん、またやりっぱなし。
お父さんを怒らせるのも面倒だから、
私が代わりに片しちゃえ。
これで問題なし」
みたいな行動も、たくさん取ると思います。
しかも、上の子が習い事に行くのに親が付き添うため、
下の子の面倒を見ながら留守番させられたり、
下手すると、その上、ご飯も炊いておいて、
などとお願いされたりします。
すると、
何か片付けたり人のためになる行動をしたときに
「見て見て、私がやったの」的な、
賞賛を求めようという気持ちが
極めて薄くなっていく気がします。
問題なくその場が収まれば、それでよし、
という日常です。
もともと、親の注意が払われていないので、
テストで満点とったぐらいで
親に褒めてもらえるとも思っていない、というか。
親の方も「この子は問題なし」と、
スルーします。
忙しいのでね。
まあ、ちょっと悲しいかもしれないし、
自己評価が低い人間が育ちそうかもしれませんが、
その分、
独立心などという言葉を考えるまでもなく、
自分で勝手に我が道を生きていく人間が、
多いのではないかと。
真ん中っ子症候群 Middle-Child Syndrome
は、もちろん
海外でも、子育ての注意点となったり、
自己分析としても話題となるようです。
参考までに:
若い頃は、
親から愛情をかけてもらえなかったと
悲しい思いをしたり、僻んだり、
新品を買ってもらえる他の兄弟をずるいと
羨んだりしますが、
この歳になって振り返ると、
おかげさまで、
誰かの許可を得て何かをやろう、などという束縛からは
かけ離れていて、
自分で考えて自分のできることをやって
一人で生きていくのが当たり前。
長子や末っ子が、
つい当てにしてしまっている親からの独立
というプロセスに苦しみ悩むときに、
そんなものは存在しないかの如く、
ほいほいと前進できた気がするのです。
そういう真ん中っ子が、
(そうじゃない真ん中っ子もいます。
勝手な説ですので悪しからず)
絶滅し始めている現在の日本。
うーん、
どうなるんだろう。
お正月のお雑煮と真ん中っ子症候群、
こういうものが
勝手に頭の中で繋がっている私って、
やっぱり変な人です。