リンデン

読書と刺繍が好きな20代女性。小説を書くのは初めてです。穏やかで静謐な文章を目指しています。

リンデン

読書と刺繍が好きな20代女性。小説を書くのは初めてです。穏やかで静謐な文章を目指しています。

マガジン

  • 海浜サナトリウム

    海岸沿いの結核療養所ーサナトリウムに入院した青年。穏やかな日の光と潮の匂いを含んだ海風を感じながら、結核に侵された肺と病んだ精神をゆっくりと恢復させていく。

  • 柔らかな朝

    心身の恢復途上の軍人と薬草摘みの魔女のある朝の記録。

  • ブローチ

    薬草に詳しくて刺繍が好きなロサさんと、傷ついた心を持った少女との穏やかで静かな時間。

最近の記事

柔らかな朝#5

彼は同じ旋律を懸命に繰り返し弾き続けた。 行進曲は壮大な旋律だったが、小さな家の古いピアノで弾くとどうしても音色が充分に響かず、どこか迫力に欠けた。それでも彼は防衛軍の威厳を表現するために力強く演奏を続けた。いつか彼の繊細な指が折れてしまうのではないかと心配するほどだった。 私は刺繍をし始めた。深緑の刺繍糸で、彼の名のイニシャル「H」を、ブラウスのポケット、スカーフ、非常食袋、楽譜ケース…彼が軍で使用するもの全てに思いを込めて刺繍していく。 長い時間、刺繍をすると、多少私の

    • 柔らかな朝#4

      日の光が庭の花に充分に射し込む頃、たっぷり時間をかけた私たちの食事が終わった。 私は食器を下げ、石鹸で洗う。彼はその間に洗いたての白いシャツに着替え、昨日街で買ってきたという楽譜を手にピアノへ向かう。 家には、祖母が弾いていた古いピアノが一台あった。私も小さな頃祖母に習ってピアノを弾いていたものの、いつしか開くことがなくなってしまった。そんな埃を被った手入れもされていない古いピアノを彼が見つけ、自分で調律をするから弾かせてくれるかと聞いた。 彼の指は優しく労るような動きで鍵

      • 柔らかな朝#3

        私たちは、ぽつりぽつりと話したり、あるいは心地よい沈黙を味わいながら、ゆっくりと朝食をとった。 彼が話すのは、森の中でさえずる小鳥の名や、街に品揃えの良い楽譜屋を見つけたこと、私が調剤した頭痛薬が大変によく効いたことなど、他愛のない内容だった。 彼は自分の過去を話そうとしなかった。 森の中で薬草を摘んでいる最中に、全身に深い傷を負い、瀕死の状態で倒れている彼を偶然発見したのが1か月前。身なりから、異国の軍人だということだけは分かったが、何時誰に怪我を負わされたのか、どういっ

        • 柔らかな朝#2

          「さあ、できた。食べよう」 「ありがとう。いただきます」 私はまず、木製の器に入ったミモザサラダを皿によそう。新緑のリーフサラダと生ハムに、ミモザ色の卵とラクレットチーズが盛られている。春の庭を思わせる、美しいサラダだ。 彼は、ひよこ豆のあたたかいスープを飲んでいる。このひよこ豆は、私が金曜日に市場で買ったものだった。クリーム色、赤紫色、緑色、様々な色に惹かれて買ったものの、使いどころが分からず放置していた。彼が豆のかわいらしさを引き出す素敵な料理にしてくれた。 半熟卵の目玉

        マガジン

        • 海浜サナトリウム
          7本
        • 柔らかな朝
          5本
        • ブローチ
          3本

        記事

          柔らかな朝

          駒鳥の鳴き声で目が覚めた。 駒鳥は馬の嘶きのような声で鳴く、愛らしいオレンジと水色の羽毛を持つ小鳥だ。 一度だけ、森で見かけたことがある。 春の始めのやわらかな光が窓から差し込んできた。小さな塵が光を受けてちらちらと待っている。 私はその様子をしばらくぼんやりと眺めて満足し、やっとベッドから起き上がり、のろのろとリビングへ向かう。寝室を抜け出し、階段を降りると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂っている。 キッチンに立っていた彼は、私が階段を降りてくるのに気づくと、気さくな

          柔らかな朝

          ブローチ#3

          ロサさんは、私を家に上げると居間に連れて行く。 居間には古い木の机と椅子が置いてあるだけだったが、窓から庭の薔薇がよく見えた。 机の上には小さな硝子の花瓶があり、いつも季節ごとに庭に咲く花が生けられていた。今日は、かわいらしいアプリコット色の小さな薔薇が一輪。飾り気のない素朴な居間に映えている。 席に座っていると、ロサさんはレモングラスのハーブティーを出してくれた。透明なグラスに注がれた、美しい金色のティー。レモンの酸味に草の苦味を加えたような味は、少し汗ばむほどあたたか

          ブローチ#2

          「あのう…こんにちは」 私はロサさんがいつもいる部屋の窓をノックした。 しばらく経ってから、ガチャン、という音がして、扉が開かれた。 「こんにちは。上がって」 ロサさんはそう言って、私を出迎えてくれる。特別に笑顔を作ることのない、ごく自然な振る舞いが、緊張した私の心を穏やかにさせてゆく。 ロサさんは、村から少し離れた林の傍のこの家屋で暮らしていた。軍人さんと共同生活をしているようだが、私がお邪魔する時間帯には、彼は既に家を出ていっているので、1度も会ったことがない。 家の中

          ブローチ#1

          穏やかな日の光が降り注ぐ、午前の刻。 庭の入口の花壇には、ピンクとアプリコットの薔薇が優雅に咲いていた。 ロサさんは、いつもこの時間に刺繍をしているはずだった。煉瓦造りの古い家屋。窓から日が差し込む小さな部屋で、ロサさんはか細い指で繊細なレース編みのように針を動かしている。 彼女のことを、魔女のようだと思ったのはいつ頃だろう。少しウェーブのかかった白に近い明るい金色の髪。深緑を森を閉じ込めたような瞳。麻のワンピースを身にまとい、赤い頭巾のついたローブを羽織っている。 気難

          ブローチ#1

          海浜サナトリウム#6

          彼は予定していた軍議を急遽欠席し、その日は1日中診療所のベッドの上で絶対安静を余儀なくされていた。感染防止のために隔離された部屋でいるために、人の声や物音は聞こえてこない。ただ、看護師と軍医が代わる代わる彼の様子を見に来る以外は、誰とも口を聞くことは無かった。 彼らは四角形の紙で鼻と口を覆い、それを紐で耳に引っ掛けていた。マスクといって、簡易的に感染防止のために着用するらしい。目元以外の表情が読み取れないため、彼は不審がった。 その日の夜は喀血を起こさなかった。しかし、断続的

          海浜サナトリウム#6

          海浜サナトリウム#5

          結核。肺病。 彼の脳裏に常によぎっていた言葉が軍医の口から発せられた途端、彼はひどく狼狽した。 「そうか…俺が、肺病に…」 「診断確定は検査結果が出てからですが、いずれにせよ早急に入院し治療を行う必要があります。本日から軍議、任務、戦陣への出撃は全て中止してください。」 治療なんて。やっとの思いで軍に入隊したのに、全てを捨てて馬鹿のように日光にでも当たり続けるのか。彼は自嘲気味に笑った。 「日光に当たって新鮮な空気を吸ったって、それで肺病が治るわけがない。あんたたち医師もわか

          海浜サナトリウム#5

          海浜サナトリウム#4

          彼は精神的な衝撃と倦怠感で歩くこともままならなくなった。壁伝いに跛行しながらやっとの思いで軍に併設されている総合診療所に辿り着いたのだった。 連合軍の軍医を任されているのは、柔和な物腰の長身の青年だった。静水を湛えたような美しい瞳を持ち、神秘のベールに包まれている。異国の出身で、もとは船医を勤めていたらしい。若いながらも大陸屈指の腕と知識を持ち、不思議な薬や術式で病や傷を治すと評判の名医だった。 彼が診療所に辿り着くやいなや、軍医はすぐに彼の腕をとり、白い清潔なベッドに寝

          海浜サナトリウム#4

          海浜サナトリウム#3

          彼は喀血するまでに自らを蝕む病に気づけなかったわけではない。入隊したばかりの未来ある若者が数年後に喀血し肺病と診断され除隊されるという話は前々から見知っていたのだ。 彼は他の軍人同様、肺病を恐れた。軍医から指南された手指消毒、呼吸法、全てに従い実行した。しかし一方で、そんな方法で肺病を予防できると信じていたわけではなかった。 肺病にかかると、発熱、痰の絡んだ咳から始まり、夜間の盗汗、やがて喀血に至る。有効な治療薬はない。財力のあるものは高原や海辺など風光明媚で空気が綺麗な場所

          海浜サナトリウム#3

          海浜サナトリウム#2

          軍議に必要な資料や筆記具を集め、会議室に向かう途中、急に激しい咳と胸痛が彼を襲った。彼はその場で立ち止まり身を屈めながらこれまでにない息苦しさを感じていた。 と、不意に口内に鉄の味が広がったかと思うと、口から液体が溢れ出てきた。掌で覆っても留まることなく流れ落ち、木造の床に紅の溜まりを作った。 喀血。 彼は暫し呆然とし、その後ひどく狼狽えた。心臓の鼓動が早くなり、瞬時に頭に血流が集中したようだ。しかし何も考えられない。彼は自分の足元にできた血溜まりを凝視していた。血を吐

          海浜サナトリウム#2

          海浜サナトリウム#1

          青年が喀血したのは、連合軍に入隊して2年後の秋の暮れの日のことだった。 その日は晴れていたが、空気には肌に心地よさを感じさせるひんやりとした冷気を含んでいた。 彼はその日もいつものように早朝6時に起き、洗面台で顔を洗い、配給のライ麦パンと牛乳を食した。同じ時期に入隊した仲間と談笑し、その後軍議に出席するため準備をし始めていた。 元来几帳面な性格の彼は、寄せ集めの軍隊にとって貴重な事務官として重宝されていた。将軍の傍らで、新規入隊者、除隊者、軍議の書記、軍資金の管理など、

          海浜サナトリウム#1