番外編#4 「楽しい」は我慢すべきなのか
やあやあやあ。
例えば、法律のある分野の研究をしているのに、映画産業の勉強をしたくなることないだろうか。楽しいから。
例えば、システムエンジニアなのに、教育心理について勉強したくなることはないだろうか。楽しいから。
あるでしょ!!
ないか??あるだろう。
自分がある特定の研究をしているからといって、それに関係するであろう分野の勉強だけに注力すべきであって、それ以外の分野の勉強に充てる時間はできるだけ避けるべきだなんてそんなこと言われても、いやそんな自分の知的興奮の赴くままに勉強していることの何がいけないんだって話になるんだが、その点について親とめちゃくちゃ口論になった。昨日。
それはもちろん自分がやりたい研究はあるし、それが自分の最優先事項であることは百も承知。だけど、情報法という研究の性質上、単に情報と法を結び付けて考えれば論文が書けるわけでもなく、高度情報社会と言われる現代社会が全体としてどの方向に向かっているのかを網羅しておく必要がある。そのためには経済、政治、教育、芸術などあらゆる分野に知見を広げれなければ、と思って今真剣に勉強しているのだが、その過程において、○○っていう会社に就職しておくこともキャリアとしてはベターなのか?とか、弁護士資格を取るべきか?とか色々選択肢が増えていく。それでどの選択肢を選ぶべきかっていう悩みはもちろんあるのだが、その時に選ぶ基準は「どの道に進めば最終的に研究内容が濃くなるか」というのと、「楽しいか(知的興奮度が高いか)」だと思っている。
この最後の「楽しいか」というところに親はとてもひっかかったようで、将来楽しさだけで生きていけなくなるぞ、とかいずれ我慢しないといけない未来がくるから、それを見据えて今選択をしろだとか言ってくる。人生計画を作って、計画通りの人生を進めと。今のうちにそういう計画をしておかないと、気の赴くままに行動していてはなにになるかわからんだろと。
言わんとしていることはわかる。いずれ結婚して子どもが生まれたりしたら、自分がしたいことが100%できないことがあるかもしれない、というのはめちゃくちゃ分かるし、そのために今の内に準備しておけというのも分かる。だが、そういう生き方もある一方、ある程度人生計画に柔軟性を持たせる生き方も尊重されるべきではないか。「正しい生き方」と感じるのは過去を振り返ることでしか分からないことだし、自分がワクワクする人生を進み続ければ人生を俯瞰した時に「ワクワクしてきた人生だなあ」となるし、それで僕は満足なのだ。結婚すればもちろん人生は変わるし、僕自身は家族を持てば家族を第一に考えるはずだが、そうだとしてもワクワクする仕事をしていきたいし、「我慢しなければ」という考え方はしたくない。
それに、もう一点言われたのが、「動く人間と動かす人間とがいた場合、お前は前者だな」ということ。なんかディスられた気がしてちょっとピリっとした。笑
また両者は別に区別する必要はなくて、勝手にバリバリ動いてたら同士とかが集まってきて組織ができるが、その組織の中では各々が強力なプレーヤーであって力関係は存在しない。形式的に肩書はつくかもしれないが、リーダーだから人を動かさないといけないというわけではなくて、誰よりも考えて動いていれば先は見えてくるからそういう発言をしていくうちに「先が見えている人」という大衆認識の基リーダーになるんだと思ってる。
逆にはなから人を動かす人になりたいから自分から動く人間にはなりたくないという人はダサいし結局なれない。これは自分の経験に基づいている。
親とはいつもこういうことで言い合いになるが、結局は自分の考えが整理されてとても勉強になる。
結局、研究の核となる問題設定がしっかりできていれば、意義のある「寄り道」は多少許されるべきで、その過程で出会った知識ないし経験は結果的にconnectされ、未来に活きてくるはずだと思う。ジョブズ的に言えば。
日記みたいな感じで終わっちゃった。
ばいび。(画像は学食のカリーブルスト)(とてもおいしい)