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認知の表出としての言語~ひとは言語で思考しているのか~
今朝公開された森崎修司氏による論文紹介を受けて、原論文をざっと見てみた。
どういうコードを誤読しやすいか、その要因について調べた研究なのだが、その手法が、考えていることを発話してもらうというプロトコル分析だという点も興味深かった。学生時代に human-computer interaction の分析に使いたいと思って学んだやつだということで、懐かしくも思った。
ここから改めて、自分は人間の認知のメカニズムに興味があって、その表出としての言語にも惹かれているのだろうと思ったり、思わなかったり。
一方で、考えていることをそのまま発話するということは本当に可能なのだろうか、本当は思考内容と表出された発話内容とは別物なのではないだろうかという疑問も常につきまとっている。そもそも人間は言語で思考しているのだろうかという点も、思考能力と言語能力とは別物であるといった論文やビジュアルで思考する人々の話を考えると、疑問が否めない。また、まとまっていない思考を言語として表出するための負荷がどう影響するのか、いわゆる言語化力が高い人ほど慣れていて負荷が低いのか、逆に常にうまく言語化しようという意識が強く、そのために定常的に負荷が掛かり続けているのかといったことも気になってくる。
一方で、思考内容と発話内容とに一定の相関があるのであれば、それはそれで分析しようがありそうだ。だからこそプロトコル分析というものがなくならずに使われ続けているのではないかとも思われる。これを機に、もう一度プロトコル分析について学び直してみたいと思った。
余談
Voicy heldio の堀田先生のお話を聴きながら、リスナさんたちがどのようなことを考えているのか、それをリアルタイムで発話してもらって分析するのもおもしろそうだなどと妄想が止まらない。