
短編小説「空に舞い降りる天丼」
この街には奇妙な噂があった。深夜、誰もいない通りにポツンと現れる屋台があるという。その屋台にはただ一品──天丼が置かれている。しかもそれは、いつも空からぽとりと落ちてくる、というのだ。
わたしはそんな馬鹿げた話を信じてはいなかったが、新聞記者という仕事柄、噂の真偽を確かめたくなった。ある月夜、通りの角を曲がると、果たしてそこには古びた屋台があった。中に人影はなく、年季の入った看板には「天丼」とだけ書かれている。しばらく待っていると、キッチンらしき調理場の中央に真っ白い丼が浮かび上がった。
周囲に人の気配はない。夢でも見ているのかと目をこすると、丼の中へ、ひとつ、またひとつ、エビ天が落ちてくる。軽やかな音を立てて油をまとった舞姫のようだ。タレをまとった天ぷらが白いごはんの上にふわりと着地すると、見たこともない美しい天丼になった。
耐えきれなくなったわたしは、その丼を手に取り箸を伸ばした。口に運ぶと、かつて味わったことのない極上の味わい。カラッと揚がった衣、甘辛いタレ、そしてどこか懐かしい香ばしさ。強烈な幸福感で、思わず涙がこぼれそうになった。
するとふいに、丼の底から奇妙な声がした。「あまりほめると、帰れなくなるよ……」
思わず手を離しそうになったが、この至福を手放すことなどできやしない。すると、丼のまわりを薄い光が包み、まばゆい閃光があたりを照らした。気が付くと、わたしは屋台ごと見知らぬ場所にいた。どこか異国のようだが、人影は見当たらない。
呆然としていると、屋台の看板が書き替わった。「天丼──空に舞い、魂を運ぶ」。どうやらあの一杯には、食べた者をどこか遠くへ連れて行く魔力が宿っていたらしい。あるいは魂をなにか別の次元に連れ去ってしまうのかもしれない。
再び丼をのぞくと、いつの間にかエビ天がきらりと浮かび上がり、またひとつ、またひとつと落ちてくる。空から舞い降りたそれらの天ぷらは、今度はどこへわたしを連れ去るのか。丼の中には、深い宇宙が広がるようにも見えた。
その夜以来、この世界のどこかで、わたしは“天丼の旅”を続けている──。月夜の屋台に立ち寄る、あなたの姿を探しながら。