38.日本が独立・自尊の国になるためにー様々なイスラムあり?

日本国内でもムスリムと思われる人たちをたくさん見かけるようになりました。

街中でケバブを商っている店も見かけます。

テロは一神教同士の信仰の上の軋轢から起こるのではありません。

日本でも20年以上も前になりましたが、平成13年(2001年)5月に、コーランが焼き捨てられたのではないか、とイスラム教徒が全国から200~300人が集結し、警察や県当局に対し、大抗議行動をするという事件に発展したことがありました。

富山県での事件です。焼き捨てられたコーランが路上に捨てられていたのです。

この事件では、在日パキスタン大使館の二等書記官も富山県庁を訪ね、「コーランは人生の価値を説いた大切なもの、法律のもとに富山にいるパキスタン人をできるだけ保護してもらいたい」

などと県内に住むパキスタン人の人権と宗教の自由を守り二度とコーランが破られることがないように求めた、という報道がなされました。

警察も県庁の担当者も、一神教というものが分かっていたようには思われません。

何故、イスラム教徒が「コーランを焼き捨てられた位でそれほどまでに、エキサイトするのか」というのが大方の日本人の考え方でしょう。

この事件に対する日本人の反応が、当時、インターネット上の2チャンネルに沢山書き込まれました。

「日本人でいえば、般若心経の教本が焼き捨てられたくらいで、イスラム教徒はなぜあれ程興奮するのか」とか「宗教はこわい……」とかいうのが書き込みを代表する意見です。コーランの重要性を知ることなしには、イスラム教を理解することができません。

「イスラム教徒がらみで起こるテロ事件の多くは、実は彼らの側からすれば自分たちの権利を守るための正当な闘争であり、テロ行為でないということになる。したがって、イスラム教徒の関与する事件を、すべてテロ行為と見なすことは危険極まりない。彼らイスラム原理主義者は、決してイスラム原理主義に凝り固まった、狂信的な者たちばかりなのではない。

イスラム原理主義者の多くは、実はイスラム世界のなかではインテリ層を形成している人達なのだ。すなわち社会的に高い地位にある穏健な人のなかにも多数のイスラム原理主義的考えを持つ人たちがいるということだ。もちろん彼らはテロ行為に走ることもテロに加担することもないが、彼らのなかにはイスラム原理主義者たちによるテロの発生原因が、実は外国によってつくり出されていることに強い憤りを感じている人が少なくない。」(佐々木良昭・ジハードとテロリズム30~31頁)という識者の意見もあります。

2001年(平成13年)9月11日に、アメリカにおいてワールド・トレーディング・センタービルに旅客機が突入するといういわゆる9.11テロがあり、それはイスラム教を信ずるテロリストが実行したと言われております。

しかし、「9.11テロ」の原因は何か、また、何故テロリスト達がテロを実行したのか、ということになると、真実は分かりません。それ以降、イスラム教徒とキリスト教徒との軋轢が増しているように思われます。

海外では、2005年(平成17年)、イラク兵の捕虜を取り調べていた米軍がコーランをトイレに投げ捨てたのではないか、とニューズウィーク誌が報道し、それが誤報ではないのか、とその記事をめぐってまた、大騒動となりました。

2005年(平成17年)9月には、デンマークの新聞が12枚のムハンマド(モハメット)の風刺画を載せ、イスラム教徒がそれに対し抗議運動を、それに対し欧州諸国の一部の新聞が風刺画を再掲載する、という事件がありました。

それらの事件の当事者の言動をみていると、西欧の当事者誰もが「ムハンマド」や「コーラン」がイスラム教徒にとって如何なる位置を占めるかについて、その事の重大性を知っています。

しかし、日本人は一神教徒でないため、その重大性について理解が及びません。

日本人は、コーランのみならず、世界には一神教を信仰する人々がおり、世界的に見れば、一神教徒の「宗教」に対する考え方が、主流をなしていると考えることができません。

コーランを焼き捨てられたイスラム教徒の人々にとって、そのような心ない日本人の行為はどのように考えられるのでしょうか。

譬えてみるとよいのではないでしょうか。

われわれは、麻酔をせずに外科手術をすることはありません。すなわち、人間が身体にメスを入れる時には、全身麻酔か局部麻酔をします。

麻酔をかけられた上で人間の身体の一部を切っても、痛みを感ずることはありません。

しかし、麻酔をかけずに身体が切られたらその痛みは如何程でしょうか。その痛みに堪え切れるでしょうか。勿論堪えられません。切られた人は激怒します。

一神教徒である、ムスリムにとって「コーランを破られたり」、「ムハンマドを風刺画にされる」といことは、あたかも麻酔もせずに、他人から、身体を切りつけられた患者が痛みを感ずるのと同様なのです。

すなわち、日本人は「一神教」とりわけイスラム教を知らないので、あたかも麻酔のかかった身体なのです。メスで切られても痛みを感じないのです。

日本人は、イスラム教における「コーラン」や「ムハンマド」の重要性を知らない、つまり「日本人の信じる宗教」はいわば一神教に麻酔がかかった「宗教」とはいえない「宗教」なのです。それが八百万の神を信じる日本人なのです。その「宗教」自覚した方が良いですね。

我々の信ずる宗教の側から考えるから、イスラム教やキリスト教に対する理解が及ばないのです。

大事なことは、日本人にとっての「般若心経」の経本とは比較にならない程「コーラン」が重要なものであることに思いを致すことです。

筆者(クリエーター)の体験によれば、チュニジアのモスクでは、異教徒である観光客を

内部に入れてくれることはありません。入り口から内部を覗き見るだけです。もちろん内部には信者がお祈りする空間があるだけです。

トルコのイスタンブールのブルーモスクは観光で有名です。

筆者が見学に行ったのは、金曜日の礼拝が終わった時間でした。礼拝が終わった信者が、出て来るわ、出て来るわ、東京ドームで野球が終わった時間以上の「人、人、人」なのです。

その人の波に圧倒される思いでした。大部分の人が立ち去ったあと、異教徒も中に入れてもらえます。

中に入ってみると、又その天井が高いこと、犬吠埼灯台が一基入ってしまう程の高さと広さがあるのです。

中と外にはまだ信者さんがかしずいてお祈りをしています。仏教徒である筆者もかしずいて三拝の礼をしたのはもちろんです。

サウジアラビアは、お祈りの時間になると、レストランは扉を下ろします。ちょうど我々は食事中でしたが、ムスリムの人たちはお祈りの場所に行き、礼拝しなければなりません。レストランの中には「宗教警察」の係官が、礼拝に行かないムスリムを探しにまわってきます。

そんな不敬を働くムスリムはいませんが、「礼拝に行かなければどうなるのですか?」とガイドの方に問うと、「もちろん処罰されます」という答えでした。

日本国内でも、ショール(=ヒジャブ)を被ったムスリム女性を町で見かけるようになりました。

ムスリムの女性はこのヒジャブという被り物は「宗教的」なものなのです。

フランスは厳格な政教分離の国是ですので、公立学校にヒジャブを被って行くことはできません。日本人生徒が教室に帽子を被ってはいるのとは違います。

イスラム教では豚肉を食べることや飲酒が禁じられています。

インドネシアのジャカルタのレストランでの出来事です。なんとビールを注文すると瓶に紙を巻いてビールであることを隠してビールが出てくるのです。

又、豚骨スープでラーメンを作っているラーメン屋さんがあります。

インドネシアに長年住んでいるムスリムが「私は華僑だから豚骨スープのラーメンを食べます」といえば、若いムスリムのインドネシア人が言いました。「私は豚骨ラーメンは食べません。鳥のだし汁でつくったラーメンしか食べません」と。

ガイドさんが何と言ったか? 「ナーンチャッテ イスラム教というんですよ」と。

サウジアラビアのイスラム教徒とインドネシアのイスラム教とでは同じイスラム教徒でも同じようであってそうでもないようです。

日本国内の小中学校にも、外国人の子供たちが入学する例も増えてきました。

現場の教育者たちは、どうしているのでしょうか?私は現場を全く知らないので、どんな問題につき何と答えたらよいのか、について何とも言えません。

(つづく)


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伊藤博峰
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