5.坐禅の功徳―人間の思考法(その1)
人は自分の意思によらずに生まれます。例外はありません。「父母の2滴」です。
仏法では、「受け難き人身を受ける」と表現し、人間として生まれるのが尊い事実である、
と言います。
人間だけではなく、地球上には何千何百という数えきれないくらいの動植鉱物が存在します。その中で稀な「人間」に生まれてきたのです。
オギャーと生まれた時は、一個の「動物」に過ぎません。犬や猫と同じです。
しかし成長するにつれて、周りの人達(大人も子供も含みます)や動植物との交流から、言葉や行動によって、社会生活を続けてゆくための行動様式を身につけます。
まず最初は親から「言葉」を教えられ、どのように「行動」するのが良いのかを、教えられます。いわゆる躾けです。
腹が減れば「アーン、アーン」と泣き声を発します。
オムツが濡れて気持ちが悪い時も泣き声を発しますが、空腹の時とは微妙に違います。母親はそれを聞き分けます。
次いで赤ちゃんは言葉を覚えてゆきます。
「ウマ、ウマ……」
何かを食べたい、という言葉です。その言葉と共に、指で食べたいものの収納されている容器を指し示すこともあります。
このように、物心がつくに従い、自分の意思で言葉を学び行動するようになります。
そのもとはいわゆる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「欲望」です。
好きなものを貪り求める貪欲、嫌いなものを憎み嫌う瞋恚、的確な判断を下せず迷い惑う愚痴、の三つです。三毒と言います。
この貪瞋痴は成長するにつれて、我慢できるようになります。
何故なら、その「毒」を誰かに向けて放つと、相手方からも反射的にその毒が返ってきます。
だから我慢した方が損得勘定で言うと、得になります。
この貪瞋痴が我々の行為を規制します。
人間の心は、自分で自由になるようでなりません。あまりにも多くの「情報」(=貪瞋痴を含む後天的な情報)が脳内に貯めこまれています。
重要なのは「言葉」です。例えば「お前は馬鹿だ!」と言われたとしましょう。
真実は「お前は馬鹿だ!」という言葉によって、言われた人が馬鹿になる訳ではありません。
能力があるかないかは、時と場所、どういうシチュエーションで、誰が言ったかによってその能力は決まります。
アイディアを出す人、それを計画する人、実行する人、その計画を改善する人等々。
能力は人それぞれです。世の中は、多数の人達の集まりです。
人が動くのは、他人の「言葉」と「行動」によってです。
「理屈を言わずにやってみろ」というのが「古い」日本人であり、本質です。
「言葉」で計画(Plan)を立て、実行(Do)、評価(Check)、改善(Action)を繰り返すのが、キリスト教徒の人達です。
テイラーの科学的管理法をはじめとして、日本にアメリカ流の製造・管理についての手法が戦後どっと入ってきました。SWOT分析等々アメリカの手法が戦後どっと入ってきました。アメリカの「経営の神様」もやって来ました。例えばドラッカー。
日本人は勉強するのが好きで、真面目ですからそれらを身に着けつけたのです。
アメリカ流は何事をも、細かく切り刻んで考えます。
これに反して日本流は、全体を俯瞰し、感覚で決めます。必ずしも「言葉」を使い、分析して考えるのではありません。
動物的な「カン」なのです。他人の仕草や製品の出来上がり具合と「対話」して又修正するのです。これの繰り返しです。誰もが同一の製品をつくれるものではありません。
大量生産には向いていないのです。職人の道です。だから「名人」と言われる職人が誕生するのです。(つづく)