小説・現代の公事宿覚書-腹の虫(10)

石原一郎は持っているカギで玄関を開け、帰宅の際に言っている「ただいま」という掛け声もかけずに家にはいった。
「おかえりなさい、夕食は召し上がりましたか、用意してありますよ」
妻は何事もなかったかのように、一郎を迎えた。そのまま居間に入ると、妻がお茶を入れてくれた。何も話さない夫に妻は、
「何かありましたか?……」
と怪訝な顔をして尋ねた。石原は訊きたいことを我慢することができず、性急に言った。
「今日、銀座で見かけたんだが、銀座に行かなかったか?」
「行きましたわ、それがどうかしたんですか?」
「誰と一緒だったんだ?」
「友達とですが、それがどうかしたんですか?」
と男と歩いていたという疑いをみじんも感じさせない。
(気づいていたのなら、何故声をかけてくれなかった)と夫の無関心ぶりを責めているかのような声だった。
石原は訊きたいことを訊かずにはいられなかった
「男と一緒ではなかったか?」
「いいえ、高校時代の友達と二人でしたが、それがどうしましたか、久しぶりに東京に出るのでたまには、お茶しようと銀座に行ったんです。友達は、今日は楽しかったわ、と言って帰りましたわ。私も先ほど帰ったところです」
妻は何事もなかったように平然とした様子で答えた。
俺の見間違えだったのか、と妻に対する疑いをそれ以上追求することはなかった。
石原は友達の名前を訊きたいと思ったが、嫉妬していると思われるのが嫌で、名前を尋ねるのは止めた。
石原はひょっとしたら、自分の見間違いではないかと思って安堵したが、まだ疑いの心が残っていた。そのまま夕食も取らずに、二階の自室に入り、作りかけのプラモデル造りに熱中するつもりが、上手くゆかない。脳裏を男と楽しそうに歩いている節子の姿が浮かぶ。妻をとっちめて、嘘を言っていることを吐かせてやろうと思い立ち上がるが、(あの調子では不倫を認めないだろう)と気持ちがなえて来てしまっている。(つづく)
 

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伊藤博峰
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