22.日本が独立・自尊の国になるためにー政治家の決断
指導者、とりわけ政治家の決断は国民に与える影響が大きい。
「決断」とは、なすべき行動・とるべき態度などを迷わずに決めること。また、その決めた事柄を言います(新潮 明解国語辞典第6版)。
決断は、他人がみてもわかるように「自分の意思」を行動でしめすことです。
決断は他人を動かすのです。ウ露戦争、中東危機、台湾有事と争いには事欠きません。日本の政治家は、この戦争・有事にあたって「決断」を迫られるのです。
「平和、平和、憲法 9条、9条」とお題目のように唱えていては、政治家の役を果たせません。
世界中が第三次世界大戦、それも全面核戦争の恐怖におびえたのは、いわゆるキューバ危機(1962年)です。
アメリカの核包囲網に対処するため、ソ連のフルシチョフはアメリカの裏庭であるカリブ海のキューバに、核ミサイルを設置した。アメリカは、この動きを察知し、「もしキューバのミサイル基地が撤去されなければ、ソ連からの攻撃とみなして、直ちに攻撃すると」と声明を発します。
海を渡ってソ連の艦船がやってきます。固唾をのんで、世界中の人々のほとんどの人々が見守ったのです。
体験のある人はお判りでしょう。キューバ危機は戦後最大の危機でした。時のアメリカ大統領ケネディはソ連に対して一歩も引きませんでした。ソ連のフルシチョフが折れ、キューバからミサイルを撤去することをアメリカに伝えて、この危機は無事解決し、人々はほっと胸をなでおろしたものです。
政治家の決断が「危機」を救った良い事例です。
この時、なぜ、ケネディ大統領は、一歩も譲らない決断ができたのでしょうか?
ケネディは若き日に、ミュンヘン会談の結果に着目して、大論文を書いているのです(小室直樹・日本人のための憲法言論 新装版 集英社インターナショナル発行 集英社発売 323頁~327頁参照)。
映画・サウンド=オブ=ミュージックを観た人もいるでしょう。1938年(昭和13年)3月のナチス=ドイツによるオーストリア併合時代が時代背景です。
ドイツは1938年3月に民族併合をかかげてオーストリアを併合し、9月にはチェコスロヴァキアにドイツ人が多く住むズデーテン地方の割譲を要求しました。この問題をめぐって、9月末にイギリス・フランス・ドイツ・イタリア4国の首脳によるミュンヘン会談がひらかれたのです。
「イギリス首相がドイツに譲歩する宥和政策をとったため、ドイツの要求が認められた。しかしドイツはこれに満足せず、翌1939年チェコスロヴァキアを解体して支配下におき、ポーランドにも領土の一部を要求した」のです。
ドイツに対する宥和政策をとった英仏には、ソ連を警戒する意図があったので、スターリンは反発し、独ソ不可侵条約を締結し、独ソ両国がポーランドに侵攻し第二次世界大戦がはじまりました。
(山川出版社 高校世界史B 221頁~222頁参照)
ミュンヘン会談において、イギリス首相チェンバレンは、ヒトラーの戦争をも辞さずとのズデーテン併合要求に対し、対独宥和政策によって要求通り、併合を認めたのです。
その宥和政策が第二次世界大戦を招いたのです。
ケネディ大統領は、ミュンヘン会談から、「平和を守るには戦争をも辞さず」という覚悟を見せるしかないことを学んだのです。
従ってフルシチョフの脅迫にも屈しなかったのです。
政治家の「覚悟」は大変なものがありますね。
決断するには、不段の、歴史に学ぶ姿勢が必要です。
それと大事なのは「権力の行使から逃げてはいけない」(令和6/10/3付で Noteに掲載した通りです)のでしたね。
(つづく)