9.坐禅の功徳―禅問答(公案)
禅といえば、すぐに「禅問答」という言葉が浮かびます。禅問答とは、分かったのか分からないのか、チンプンカンプン、である場合の譬えです。
この禅問答を「公案」と言います。無門関とか碧厳録とかに載っている古人の悟った機縁を題材に、修行者を目覚めさせようとします。
これが古則公案、といわれるものです。
例えば、
「趙州、因に僧問う。如何なるか是れ祖師西来意。州云く、庭前の柏樹子。」(趙州和尚にある僧が、「達磨大師がはるばるインドからやってこられた意図は何ですか」と尋ねた。すると趙州は、庭を指さして「あの柏の樹じゃ」と答えられた。(無門関 西村恵信訳注 岩波文庫144~145頁)
すなわち、修行僧が趙州和尚に尋ねました、達磨大師がインドからやってこられた意図は何ですか、と。趙州和尚は、あの柏の樹、である、と答えたのです。問いと答えになっているでしょうか。理解出来る人はほとんどいないでしょう。
この禅問答は、何のためにするものでしょうか。
人を惑わすために、此の問答をするのではありません。我々も、このような公案を師家(指導者のこと)から与えられて、坐りこんで考えると、答えが出るものです。
しかし、試験勉強と一緒で、試験に合格しても、その勉強が身につかねば何にもなりません。公案をいくつ重ねてもダメだと言われることになります。
ある時、お坊さんが行脚(僧侶が諸方を巡り歩き修行すること)に出ました。田舎の一本道を歩いていると1台の軽トラが追い越して行きましたが、また、何十分か歩いていると、今度はその軽トラが前からやって来て、傍まで来ると車を止め、
「和尚さん、何をしているのですか?」と問うたのです。
「歩いているのだよ」
その軽トラの運転手は、歩いて何をしているのか、つまり心のあり様を尋ねたかったのでしょうが、あまりに当たり前の見たとおりの事実を答えられてしまったので、理屈を言う暇もありません。
今度は、その和尚さんが尋ねる番です。
「あなた方は(軽トラには、老婦人と30才半ばの男子が乗っていました)何をしているのですか?」
「今、ガソリンを買って家に帰るところです」
「そのガソリンで何をするのですか?」
「ガソリンを撒いて、親子2人で焼身自殺をするつもりで、今、家に帰る途中、和尚さんのお姿を見たのです」
「地獄で仏」とはこのことです。和尚さん、放っておくわけには行きません。
事情を聞くと、親から受け継いだ事業に失敗し、借金をこしらえ、妻子に逃げられ、親戚縁者にも見捨てられ、今や、誰も助けてくれる人はいません。もう生きていてもしょうがない、ということで母子2人で死のう、ということになったようなのです。
ここからが、和尚さんの公案です。いくら禅僧が古則公案を終了したからといっても、地獄の一丁目に立っているこの母子、を助けられなければ、何のために修行しているのでしょうか?
「ところで、お金はないのですか、家屋敷はどうなのですか?」
「はい、お金も少しはありますし、家屋敷もあります。家屋敷を売り、借金を返しても約2000万円位は残ります」
おお、勿体ない、と思ったかどうかは定かではありませんが、和尚さんは言いました。
「あなた方が死ぬのは勝手だが、2000万円も残るのであれば、その家屋敷を売って、お金を使ってから死んでもいいじゃない。とりあえず、母を連れて、ハワイ旅行にでも行ってきたら……母親を旅行に連れて行ってあげたことはある?……ハワイに行けば綺麗な女性にも会えるし、おかねも持っているとまたいい女性に出会えるかもしれないし……地獄に行くのはその後にしてもいいのじゃない……」
その母子は、天を仰ぎ顔を見合わせました。3、40分してから、その和尚さんは、言いました。
「今日は、その先の天獄(てんごく)というビジネスホテルに泊まる予定になっているから、死ぬ気になったら、この携帯に電話を下さい、お経をあげて差し上げますから」と。
和尚さんは携帯番号を教えて、その母子と別れました。しかし翌朝の新聞にも、母子焼身自殺の記事は見つかりませんでした。
この和尚さんは、自殺しようとしていた親子の命を救ったのです。これが、現成公案(生きた公案)です。
2~300年経つと、「あなたは、自殺したい、という人に会ったらどうするか?」という禅問答(=公案)になって、古則公案と呼ばれることになっても不思議はありません。
現在、古則公案といわれている公案も、現在の我々の日常生活の中に生かさない術はありません。
(つづく)