34.日本が独立・自尊の国になるためにー出でよ、令和の大伴金村!
「出でよ、大伴の金村」と言うのは、政治家にしっかりと「皇統=男系男子の伝統」を守るについて功績のあった古の政治家である大伴金村、を思い出してもらいたいという意味です。
何故なら、令和の現在、皇統の危機があると愚考するからです。
政治家の中には、「男系男子、男系女子、女系男子、女系女子」天皇の違いも、失礼ながらご存知ない方、がおられるようです。それが問題なのです。
女性天皇 について説明します。
1.光格天皇
明治維新の100年ほど前、第118代後桃園天皇がご在位のまま、22歳で崩御されたとき、皇女として欣子(よしこ)内親王が遺されましたが、5代前の東山天皇(第113代)から宮家として分かれた閑院宮家の師(もろ)仁(ひと)親王が後桃園天皇の猶子(ゆうし)として迎えられ、第119代光格天皇として即位されたのです。
欣子内親王は女性天皇にはならず、皇后となりました。
つまり、婿養子をとったのです。光格天皇は、37年間ご在位になり、直系として任孝天皇(第120代)、孝明天皇(第121代)、明治天皇(第122代)、大正天皇(第123代)、昭和天皇(第124代)、平成天皇(第125代・上皇陛下)、令和天皇(第126代・今上天皇)と続く近代皇室の祖となられたのです。
2.後花園天皇
「南北朝合一後の第100代後小松天皇の皇子、第101代称光天皇は28歳の若さで崩御され、2人の皇女を遺されたが、男性の皇子は無かった。
そこで9歳の伏見宮家彦仁親王が後小松天皇の猶子として迎えられて102代後花園天皇として即位された。後小松天皇は北朝では第6代であり、伏見宮家はその3代前の北朝第3代崇光天皇から分れた宮家である」
(伊勢正臣 日本人として知っておきたい皇位承継問題の真実(電子書籍・ダイレクト出版より引用)。
我々の先祖は、三回の皇統の危機に際して、たとえ皇女がいても女性天皇とはせず、相当な遠縁でも男系男子を猶子として迎え入れて皇室を維持してきたのです。
3.女性天皇も存在したが、それは皇統を維持するための「中継ぎ」だった
歴史上には8人10代(うちお二方が2度即位)の女性天皇がおります。それは主に「中継ぎ」として即位されたのです。
① 先帝が崩御又は退位された際に、幼い皇子が成人するまでの中継ぎとして即位された場合です。
第41代持統天皇、第43代元明(げんめい)天皇、第44代元正(げんしょう)天皇、第109代明正(めいしょう)天皇、第117代後桜町天皇がおられます。
② 先帝が崩御又は退位された際に、有力後継者が複数いて、直ぐには決められない場合に「中継ぎ」として、即位された場合です。
第33代推古天皇、第35代皇(こう)極(ぎょく)天皇(重祚(ちょうそ)されてー一度退位した天皇がまた皇位につくことー第37代斉(さい)明(めい)天皇)の例があります。
③ 上記7人8代の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者に皇位を譲ることが明確であり、その時期を待つためであったのです。
「唯一、異なる事例が、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)である。第45代聖(しょう)武(む)天皇と光明皇后の皇女として生まれたが皇子の早世により、国史上初の、そして最後の女性皇太子となった。
父帝崩御の後、即位してから、天武天皇の孫である第47代淳仁天皇に譲位した。ここまでは良かったが、両者の不和から兵乱が起こり、淳仁天皇は廃されて、淡路島に流された。
第48代称徳天皇として重祚すると、看病僧・道鏡は天皇の寵愛を良いことに、宇佐八幡神の託宣と詐(いつわ)って皇位を狙った。
この皇統史上最悪の危機を阻止したのが和気清麻呂だった。清麻呂は後に「勤皇の忠臣」として称賛され、またこの失敗からだろう、本格的な女性天皇は二度と擁立されなかった。
ただ、孝謙・称徳天皇も含め、すべての女性天皇は、先帝の皇后として寡婦、あるいは生涯未婚のままで、御在位時に配偶者はいなかった。したがって、女系のお世継ぎが生まれる可能性はまったくなかった。
これに『皇女が皇族外の男性と結婚すると皇族から外れる』というルールを合わせ考えると、男系でない男子を皇族に入れない、という原則が見てとれる。
女性は一般国民からでも皇族に入ることができ、皇后にもなれる。しかし、男性は完全にシャットアウトされているのである」
(伊勢雅臣・日本人として知っておきたい皇位継承問題の真実より引用)
(つづく)