19. 日本が独立・自尊の国になるためにー戦え、日本人!
この五輪エンブレム論争で重要なのは、西洋人の思考パターンである「挙証責任」という考え方です。日本人はどうもこの挙証責任という考えが苦手のようなのです。
挙証責任とは、「事実」が黒白どちらか不明の場合に、論理的に考えなければならないのです。その事実を主張する側が、黒白どちらかに、第三者を納得させるための証拠をあげて、その事実を証明しなければならない不利益を被るという負担のことです。
本件でいえば、使用差し止めと損害賠償請求をするためには、その前提として、それらの「権利」が発生していると考えなければなりません。
権利義務は、人間の五感の作用によっては感知できません。すなわち、「権利」は、触ったり、見たり、聴いたり、嗅いだり、味わってみたりすることが出来ないから、一定の「事実」の存否によって発生したり、消滅したりするように決められています。
事実が本当かどうか不明な場合に、その事実の存否不明の不利益、つまり事実を前提として権利が発生したり、消滅したりすることの利益・不利益をその当事者の一方に帰せしめる、これが「挙証責任」というものです。
だから、事実が存否不明の場合に挙証責任を負っている側は、一生懸命事実を証明しなければならない、すなわち、五官(眼・耳・鼻・舌・意)をもちい、人間の五感に訴えて、事実の存否を、第三者に認めさせなければならないのです。
証言や書証等といわれる「証拠」を五官で、人間の五感を刺激し、事実があるとかないとか認識させ、その権利を相手方に認めさせるのです。
これが「事実の証明」といわれるものです。物証も証言も同じ価値を持っています。証明できなかった場合は、挙証責任(または証明責任)を負担している側が負ける構造に法律自体が作られているのです。
だから「闘い」は、当事者が理性に訴えて、その「事実」を証明できるかどうか、に掛っているのです。
ギリシャ側のデザイナーのつくったロゴに五輪エンブレムが似ているかどうかの「闘い」は、まずそのデザイナーに両者のどこが似ているのかを詳細に主張させた上で、その証拠がどこにあるかといえば良かったのです。
日本人デザイナーの「権利主張」(?!)は、「言い訳け」にしか聞こえず、権利主張の強いギリシャ人の「主張」にあっという間に負けてしまいました。
(後日譚)
これには後日譚があります。東京オリンピック・パラリンピック大会の組織委員会の事務総長を務められた武藤敏郎氏が明かすものです。
この東京オリンピックの「象徴であるエンブレムを発表したのは2015年7月だった。資格を定めて公募し、専門家による審査委員会で佐野研二郎氏のデザインに決めた。世界的に類似の商標登録がないことは点検していた」
その通りでしょう。しかし、
「数日後、ベルギーのリエージュ劇場のロゴに類似していると報道があった。デザイナーと劇場は商標登録していなかったが、著作権の侵害だと訴訟を起こした。デザイナーは後に金銭による和解を求めてきて、国際オリンピック委員会(IOC)や我々が拒むと訴えを取り下げたのだが、きちんと報道されなかった。
さらに、佐野氏の原案がある展覧会のポスターに似ているなど、の指摘もあり、佐野氏は自らのデザインを取り下げたいと、申し出られた」(日経新聞令和6年1月28日 武藤敏郎・私の履歴書㉗参照)
日本人は難癖をつけられると訴訟で争わないものですから、一個人である民間人にも、このように、「金をよこせ=金銭による和解を求める」と迫られるのです。
組織委が拒んだのは良かったのですが、武藤事務総長が書かれているように、きちんと報道されなかったのは残念です。
経緯がつまびらかに報道されていれば、かくもキリスト教の世界の人々は「強欲」で、スキがあるとつけ入って来る、という事実が明白になったことでしょう。
それよりも大事なのは、日本人が「闘う」意思を持たなければいけないのです。(つづく)
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