私はそれを自己承認欲の時代と呼んでいる
初めましての人は、初めまして。
こんにちはの人は、こんにちは。
VRChatの零細手打ちUdon屋さん、Lilyです。
今回は技術記事ではなく、普段から思っていることを徒然なるままに。興味なければ戻るボタンを。
私個人はお気持ちという言葉を嫌っているし、お気持ちのつもりもなく、ただ所感を誰に宛てるわけでもなく、下手な筆で記しているだけです。
本来Twitterだって、誰宛ということもなく思ったことを呟くものだったよね?
さて、タイトルの話をしましょう。
私は2010年代からの現代を示す表現のひとつに、自己承認欲の時代という言葉を使います。
スマホの普及は、PCの普及より遥かに多くの人たちを広い電子の海に連れ出しました。(大航海時代ですか?)
人々は、従来よりずっと簡単に、多様で大量の情報に触れ、発信することが可能になりました。
放送電波の中にしか無かったような、誰からも見られる世界が、すぐ手元にやってきたのです。
インターネットは、分かっている人の世界から、万人のためのもうひとつの現実世界に変わりました。
Twitter、Facebook、Instagram……なんでもいいですが、たくさんの個人が発信し、たくさんの人に見られ、たくさんの情報に触れ、きっと世界はとてもとても広がったと思います。
一昔前を考えてみると、一人の人間の世界は、その人が眼で観て、耳で聴けて、手の届く範囲だけでした。特に、発信する行動は、その狭い世界にしか通用しないことが大半だったのではないでしょうか。
この今の潮流が、狭い世界に苦しんでいた人を多様な価値観の下に救い出したことは、事実だと思います。私はスマホ普及前から電子の海を漂流する前世代の存在ですが、私もきっとそうです。
ただ、私は、一個人にとって、世界は広くなりすぎたと思っています。
そして、いいねという承認システムが与える快楽は、幸福を与えながらも不幸にする、まさに麻薬だと考えています。
私が自己承認欲の時代と呼ぶのは、いいねに飢える人々の時代です。
狭い世界の中では、個人の存在は小さくともそれなりの大きさを持っていました。勤め人が、自分が欠けたら回らなくなると思うのと似たようなものです。
それが、大海の中でいかに自分が小さく、何者でもないかを見せつけられる。70億分の1でしかないことを明確に鮮烈に見せつけられる。
そして、この大きな世界で、何者かである個人を見せつけられる。
テレビの中にしかないと思っていた、誰からも認められる何者かに、自分と同じような等身大の一個人がなっている。
遠い世界の話ではない、誰からも認められる何者かに、自分の存在の意味の小ささを突き付けられる。
これが如何に人を苦しめるか、誰か研究している人はいないでしょうか?
ここまで書いておいてアレですが、私は普段、自分の評価の物差しを自分の中に持っています。
私が何者であるか、私の意味は、自分で考え、見出だします。難しいことはなく、私が私をそれで良い、それが私なのだから、と思える私を生きようとします。
なので、誰かからの評価や承認を以て、自己の存在意義を確認するような考えは、実のところ半分良くわかりません。理解するし納得もしますが、私はあまりそういうタイプではないので。
ただ、実際多くの人が、そのような価値観の下に、在ることも承知しています。
他人からの評価や承認を物差しとする人々にとって、いいねシステムはまさに麻薬です。
いいねがほしい。誰かに認められたい。何者かとして認識されたい。
しかし、競争世界が広くなった以上、簡単にいいねが得られるわけでもない。才能がなかったり、努力が出来なかったりもする。
自己承認に飢え、余計に自分が何者にもなれない事実を認識する。昔よりもずっと存在の小ささを思い知らされて、満たされない承認欲求は募るばかりなのに。
それでも、いいねがもらえたら、その快感に味をしめてしまう。
人間の共感力が利用された、邪悪なシステムだと思います。
このシステムを素晴らしいと賞賛する声があれば、他者評価世界でいう、成功者の論理に近いものを感じます。
大きな海の真ん中で、何者でもない自分に気付かされ、何者かになろうと足掻く、愚かな私たちが航海するこの時代を、私は自己承認欲の時代と呼んでいます。
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