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心が癒されるものの話をしよう

今日が雨が降っている。おまけに月いち恒例のあれが来てしまったので気分は少し下がり気味だ。いつもなら上手くかわしていた父のネガティブ発言と、祖母のデリカシーのない発言に苛立ってしまった。反省。でも仕方あるまい!

ずっと気分が落ち込んでいるのはあまりよろしくないので、少しでもテンションが上がるように、今日は私が大好きなねこの話をしようと思う。

ちなみに私にはねこの事を「猫」とは絶対に表記しないという、謎のこだわりがある。漢字で書いてしまうとなんとなく、距離感が離れて野性的に感じてしまうからだと思う。自分でも何故かはよくわからない。

私がねこを飼うことになったきっかけ

きっかけは中学1年生の終わりごろに、私が不登校になったことだ。両親が、毎日沈み落ち込んでいる私を元気づけようと、一種のセラピーとしてねこを飼うことに決めた。

ねこを飼ってもらうにはその当時、条件が1つだけあった。それは「病院にいくこと」だった。その当時不登校だった私は、2院の心療内科に行ってみたのだが、結果相性が合わず長くは通院出来なかった。

新しい候補として学校側から紹介されたのは、地元の大学病院の子どものこころ診療科というところだった。まず私がそれを聞いたときに思ったことは

「また病院行かなあかんの⁉どうせ行っても治らんが!」で、

そんな気持ちで迎えた診察当日、私は病院に行くのが嫌すぎて駄々をこね、絶叫し「嫌だ!!!!」と大号泣した。

「今日病院行かんかったらねこ飼わんよ!!!」そんな私を見かねた母が放った言葉がとっても効いた。その当時の私にとっては、ねこを飼えることが唯一の希望だったのである。

そんなこんなで嫌々ながらも連れて行ってもらった大学病院では、素晴らしい先生とカウンセラーさん方に出会い、高校卒業までお世話になることになるのだが、今はその話は置いておいて…

結果無事に病院に行けたので、私はねこを飼ってもらえることになった。(ありがとう昔の私)

ねことの出会い①

「どんな命も平等に大切で可愛い」

お金を払うのではなく、どこかの施設から捨てられたねこを引き取ることに決めた際、私の父が私たちに伝えた言葉だ。

人間以外のほとんどの動物には値段がついていて、表立って取引されている種類もあれば、裏でこそこそと売買されるものもいる。

ねこだって立派に取引されている動物だ。ペットショップには手のひらに乗るくらいのサイズの子ねこが展示され、人間は嬉々としてその愛らしい姿を、透明な板の奥から覗いている。その愛らしい、まるで毛糸玉のような子ねこには時に、何十万もの値段がつけられ、売買される。

そんな大金を払わなくたって、ペットショップに飾られる子ねこと同じくらい愛らしいねこはこの世にたくさんいる。知らない見えない場所にいるだけで。

ある日、父がローカル新聞の投稿欄にこんな記事を見つけた。

「子ねこ引き取りませんか?」そう書かれた記事とともに、数匹の子ねこの写真と電話番号が掲載されていた。家族全員がこれだ!とひらめき、その日のうちに電話をし、教えられた動物病院へと向かった。

動物病院に着くと、何匹ものねこ達がゲージの中で保護されている場所へ案内された。そこには威嚇する子、寂しげな目でこちらを見つめる子、構って!と言わんばかりに鳴く子など、いろんなねこ達がいた。

その中で一際こちらにアピールをしてくる子がいた。それが後に一番最初に我が家に迎え入れるねことなる、みゅうただった。

今思えば、完全に外面が良いだけなのだが、高い声でみゃおみゃおと鳴き、喉を鳴らすその姿に、その当時はなんと愛らしいのだろうと、家族全員が頬を緩めた。成猫ではあったもののその愛嬌の良さに惹かれ、その茶猫を飼うことは皆で合意した。

(今ではおじいちゃんねこです)


つづきはまた明日!





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