【中国で日本人児童刺される】中国人が子どもを狙う理由
・・・続きです。
さらに、幼稚園の帰り道に近くの売店の前ですれ違った小学5年生くらいの男の子に「小日本」(シャオリーベン)と日本人を侮辱する言葉を呟かれました。その子は娘のクラスメイトの兄でした。
小さな子どものこのような反日感情は、当然周囲の大人によって育成されたものです。親や祖父母が日頃から抗日ドラマを見たり、子どもに日本人がいかに悪いかと教育している証です。
そのような調子なので、私は幼稚園では自分から保護者に話しかけないようにし、園内では日本語を使わず、日本人だとバレないようにしていました。
誰が激し目の反日感情を持っている人か、分からないからです。
私のことを日本人だと知っている幼稚園の保護者からは、常に私に対する警戒心を感じていました。日頃、残忍な行為をする日本軍という設定の共産党が作成した映像ばかり見ている中国人は、ただ日本人というだけで、私がまるで鬼畜軍曹のように見えていたのかもしれません。
羊の群れに入ったライオンの気分でした。こちらからすれば向こうがライオンなんですが(苦笑)要するに、ベースに”敵視”があるということです。
外国人がいない田舎町なので、テレビ以外の日本人に今まで会ったことがない人がほとんどでした。
日本に旅行したことがあったり、仕事などで日本人と交流したことのある人はそこまでの警戒心はもちろんありませんが、それでも根っこには持ってるな、というのが5年間中国社会に入り込んで最終的に得た感想です。
中国の反日教育、一方的に日本が極悪だとする戦争教育は長年行われてきたものですが、習近平政権は、愛国教育をこれまでにないレベルに強化しました。中国の愛国教育とは、すなわち反日教育です。
2021年、中国当局は国内の全ての公立小中学校で外国の教材を使うことを禁止する指針を発表しました。
そして、小学校から「習近平思想」が必須科目になりました。
また、インターナショナルスクールでさえも、外国の教材を使うことを禁止し、思想教育は行うと発表されました。
なので私は、娘が小学校に上がる時に一線都市のインター校に移るという考えを捨てました。中国国内である限り、愛国思想教育と反日感情から逃れることはできなくなりました。
結局、同僚と友人の多大な助けもあって、娘は現地公立校に入学しました。
娘は学校でただ一人の外国籍児童であり、学校の歴史以来二人めの外国人だということでした。
親子でいつも遊んでいる幼稚園からの親友と、仲良くしている同僚の子供も同じ学校に入ったので、私は安心していました。
低学年の間は歴史の授業もないし、子供たちもまだ幼いから大丈夫かなと考えていました。
しかし2年生の前学期、ある日学校から帰ってきた娘が私に国語の教科書のあるページを見せて、「ママ〜、これ見て!この絵、日本人が描いたんだって。すごい上手だね!」と言いました。
この文章の下にあった日本軍と中国の子どもの挿絵です。(今教科書が手元にないので写真が撮れません)
この話は中国で有名な、中国の八路軍を助けていた勇敢な子どもが、日本軍によって無残にコロされたというお話で、小学2年生の国語の教科書の「読み物」として掲載されていました。
娘は中国語力の不足のおかげで、先生が話した「日本軍が」という部分を「日本人がこの絵を描いた」と幸せな聞き間違いをしており、正直助かった、と思いました。
そして同時に、歴史教育は高学年か中学校から始まるけれど、低学年から国語の”読み物”として日本軍が残忍なことをしたという話を読み聞かせ、反日感情を育成していることを知りました。
その後、幼稚園からの親友にも「あなたのことは大好きだけど日本には絶対行かない。だって日本は中国人いっぱいコロした悪い国だから」と言われたり、仲良しの同僚の家に招かれた時に娘と同級生の子どもの本棚に戦争関連の本ばかりずらっと並んでいるのを見てゾッとしたり
私も信頼していたママ友に面と向かって「あなたのことは大好きだけど日本のことは恨んでいる」と言われたりしたことが続き
私の親中感情はスーッと消えていきました。
それでもすでに周囲の良くしてくれている中国人に情もあり、仕事も楽しかったので中国を離れるという決断がなかなかできずにいた私に、その後致命的なことが起きて中国を出ることができました。
私たち親子が出国して1ヶ月もしないうちに、日本人学校の親子殺傷事件が起きました。
経済状況も悪化し、政府による言論の締め付けが戦時中並みにきつくなっている今、日本人が中国にいることは本当に危険だと思います。
そして、子どもを狙う理由としては、共産党は「日本軍が中国人の子どもを惨殺した」というエピソードを好んで人民に繰り返し伝えているため、復讐として日本人の子どもを狙うという側面、また、子どもを傷つけることが大人を傷つけるより遥に大きなダメージを大人と社会に与えられるからではないかと、私は分析します。