結婚前夜と麻婆豆腐。 #KUKUMU
気だるさの正体は空腹だと薄々わかっていながら、気づかぬふりをしていた。2021年、緊急事態宣言下の夏の夜。飲食店はどこも20時で閉まる。
今から外に出たところで、どの店に入ろうとラストオーダーの時間すれすれだ。
間に合ったとしても、20時のタイムリミットに追われて急いで食べねばならないだろうし、何より、うだるような暑さの夜の街にくり出す元気が湧かない。まったく湧かない(そう、あの夏は本当に暑かった)。
元気を出すには食べねばならぬ。食べるには、えいやと身を起こさねばならぬ。どちらもひどく億劫だ。
ええい、このまま眠ってしまおう。そうしよう。
誘惑に身を任せ、眠りに沈もうとした、まさにその時。同じく隣でうとうとと睡魔に取り込まれようとしていたはずの彼が、がばりと起き上がった。そして半ば自分に言い聞かせるように言う。
「ごはん、ごはん食べよう」
彼。もうすぐ私の夫となる人。
つい昨日、いわゆる「娘さんをぼくにください!」イベントをこなして、晴れて正式な婚約に至った。無事に結婚のゆるしがおりたことに安堵し、緊張の糸がぷつんと切れた反動か、私たちは今日一日をゾンビのごとく怠惰に過ごしていた。彼のアパートに引きこもり、ろくに食べもせず、飲みもせず、ただただ惰眠を貪っていた。
「ほら。起きましょう、ね」
ぼくが作ってあげるから。
そう言われてしまうと、私も起きざるを得ないような気がしてくる。わかったよ、私も手伝うよ。
「何作るの?」
「うーん。冷蔵庫はほぼ空だからね。いずれにせよ買い物は必要かな」
渋々うなずき、思い切って身を起こすと、体の歯車が噛み合い出し、稼働し始める。血が巡ってゆくのがわかる。あぁそうだ、お腹が空いた。何か食べたい。
サンダルをつっかけ近所のドラッグストアに赴く。
閉店間近の時間帯、食料品の棚はまばらだった。コッペパン、カップ麺……いやもっとガッツリ食したい。……あ、レトルト麻婆豆腐、良い。植物性たんぱく質と動物性たんぱく質。
しかしここで新たな問題が発生した。ドラッグストアは多少の食料品ならともかく、精肉までは置いていない。願わくは、麻婆豆腐にはひき肉が入っていてほしい。命たる豆腐はかろうじて確保できたのだが。
冷蔵コーナーをくまなく探す。すると冷蔵庫の片隅、白くて質素なパッケージが目に入った。
あら懐かしい。マルシンハンバーグだ。
マルシンハンバーグ。出来合いのハンバーグ。お母さんが作るお弁当にはいつも必ず入っていた。
普段は給食を食べていた私にとって、お弁当とは特別な食事で、そのお弁当でのみ相まみえるマルシンハンバーグとは、まさに非日常の象徴だった。遠足や運動会、マルシンハンバーグを食べる時はいつでも、私の心はときめいていた。
ひとパック手に取る。今日はこいつを砕いてひき肉の代わりとしよう。
そう提案すると、彼は少し驚いたような顔をして、それから「うむ」とうなずいた。
家に帰り、台所に立つ。作ってあげると言われたが、あまりの空腹にじっとしていられず、結局彼に張り付いて、その手元を食い入るように見ていた。
レトルトとはいえ、レシピをほとんど確認せず、手際よく調理を進める彼。豆腐を切り、マルシンハンバーグを砕き、冷蔵庫に残っていたしおしおのネギを刻む。その慣れた包丁さばきに、彼のひとり暮らし歴の長さを感じた。
仕上げには、ちょっぴりのお醤油。これで完成。部屋中に、中華特有の甘辛いような、食欲そそる匂いが充満する。ちょうど炊き上がったごはんを丼に盛り、その上にたっぷり麻婆豆腐をかけた。
もう待ちきれない、いただきます!
レトルトとして既に完成された味に、豆腐と長ネギ、元マルシンハンバーグ、香りづけのお醤油。
そのすべてが合わさった麻婆丼は、少し笑ってしまうくらい、しょっぱかった。だけどそのしょっぱさが、脳に突き刺さるようにおいしかった。食べれば食べるほど、食欲が湧く。ごはんが止まらない。
そういえば、彼の炊いた米を初めて食べる。硬めで、しっかり粒が立っている。
「麻婆豆腐もおいしいけど、ごはんの炊き具合も最高だよね」
ごはんの炊き具合の好みって、夫婦になる上でけっこう大切じゃない?
すると彼は頷き、真面目な顔で言った。
「ぼくもね、君にハンバーグをひき肉代わりにしようと言われて、すごく感心したんだよ。ぼく一人なら豆腐だけにして、肉は諦めていたね」
豆腐も肉と一緒のほうが嬉しいでしょうよ、と返しながら、私は思わず口元をほころばせた。
これから始まる夫婦としての長い歴史。その最初の一歩、最初の食卓。いろんなことが待ち受けているのだろう。でも「ごはん食べよう」と手を引いてくれる彼となら、ささいなことに本気で感心してくれる彼となら、どうにかできる。
そう確信できたのだ。
文・イラスト:渡辺 凜々子
編集:栗田真希
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