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ストーリーをみつめる

日常でも オシゴトでも「ストーリー」はきになる。きにしてる。

誰がどんな理由でそれを始め、どういう展開でいまに至っているか、かわされてきたセリフ、ヒントをだしてくれたひと、おかねをだしてくれたひと、ごはんを用意してくれたひと、じぶんがそこに参加した経緯、そういうことを把握できていれば、立ち位置もふるまい方もわかるから。

不満がでて「むーりー」と思っても、ストーリーがわかっていれば伝え方は工夫できる。その不満が解決できなかったとしても、そこから離れることになったとしても、ひととひととしての大きな亀裂にはなりにくい。
トラブルの大半はストーリーを忘れてしまったことで起こるように思う。

本来ごくごくあたりまえのことだし「筋」とほぼイコールではあるけど、義理人情ばかりをおもんじるニュアンスにしたくないこと、筋ということばには「これが正義だろ」という一方的な頑なさも感じられるから、「ストーリー」ということばでわたしは使ってる。

最近は、頼まれてもないのに誰もが評論家きぶんで「ご意見」を述べるのがアタリマエのようになってる傾向がある。全部がNGとは思わないけど、おかねも人脈も場も、あるいは具体的な解決案も提供できないなら、他人が0から開発したストーリーに土足で立ち入るのはどうかなと思う。
なんでもかんでもみんなで会議をすることがベストだと勘違い、もともとの誰かのすてきなアイデアも「みんな」の手でありふれたものにするおそろしいストーリーもよくみかけるな。

どの世界もナンチャッテと長年のプロ のゾーン分けが曖昧で、技術も全体力もまったく違うのに周囲は同じようにもてはやし、うぬぼれや勘違いからのトラブルも増えたように感じる。外からみて同じ大福にみえたとしても、しろうとの料理ずきさんが作ったそれは似て非なるものだし、毎日同じものをたくさん提供できるかとか、それが難なく作れるようになった長い年月の背景とか、そういうことを尊重できることもストーリー。

老舗の和菓子屋さんに「おたくもイマドキな大福でもだしなさいよーアハハ」とか、いいきになって謎の「ご提案」をしないこともストーリー。
さんざん考え、事情もあっていまの着地になってるんだろうなと想像して口をつぐむこともストーリー。
もちろん完璧になんてできないし、日々失敗はある。でも不満で感情がぐらぐらしたとき、つい口をはさみたくなったときに思いだせたら、少なくとも感情に任せてここまでのすべてをコワすことはなくなる。

いろんなジャンルのおともだちがいるけど、なんだかんだと続いているのは長い文章を扱う職業のひと、メタ認知が自然と習慣になっていて、1をきいて7くらいは理解してくれ、かつメールのやりとりが小気味いいひと。
あれこれはあったとしても、大きく全体をつかんでくれるから、理解もしあえるし、確かにそうだね、と着地させる技術をもってる。

ストーリー掌握、メタ認知ニガテだわーというひとは、いろんな役割を経験してみるといいのかもしれない。なんていうんだっけ?そういうの。
企業で取り入れてたりとか聞いたことあるけれど、短時間のごっこだけじゃ身につきにくいのかな。

なんて、ストーリーの大事さを綴りつつ、むだに記憶力よく、さらに不要なセンサー多すぎ、想像と妄想めぐらせすぎのわたしには、憶えすぎているつらさも実はあるんだけど、それでもやっぱりストーリーはいちばん大事。


リリィミンツ
SSMP

* ずっとウタうシゴトしています*


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