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「何がしたいのかわからない」ままで良い

いつになっても、自分が何がしたいのかわからないなと思う。朝起きて、仕事して食事して寝るだけ。仕事や用事が何もない時間になると、何をしたらいいのかわからなくて、困ってしまう。仕事や用事を終えて家に帰ってきて、だらだら時間が過ぎて一日が終わってしまう。何かをする時間はいくらでもある。それなのに何をすればいいのか、何をしたいのかわからない。

習い事にヨガやピラティスなんかをやっていた時期はある。仕事からの帰宅途中でそのまま寄って、汗かいて、すっきりして帰宅する。運動しているから何か自分に良いことをしている気持ちになるし、時間を有意義に使っているような気持ちにもなるし、自己肯定感高めで帰宅できる。そういう日が続く時期は、同じ毎日を繰り返していてもそれなりに良い気分で過ごせる。同じ日々を「ただ生きるだけ」でもOKな気になれる。

だけど何かのきっかけで一度そういう習慣も止めると、また始めにくい。結局またいつもの働いて食べて寝るだけの日々になってしまう。

もちろんそれが悪いわけではないけど、どうしても、何か目的をもって生きることを求められているような気がして、そのように生きられない自分を責めてしまう。

ここで言う目的とは、何か大きな夢とか、目に見える成果を生み出すことだけではない。趣味とか、誰かと過ごす時間とか、自分が日々幸せを感じる時間や活動のような小さなことでも良い。

自分にはそれすらもよくわからないなと思う。

コーヒーを飲む時間は好き。コーヒーは毎日飲みたいと思うし、実際、毎日飲んでいる。毎回同じカフェだったとしても、コーヒーを買いに行くときは毎回わくわくする。

一日の中で自分の心をぱっと明るくしてくれるできごとではある。でも、かといって「私はコーヒーを飲むことが生きる楽しみだ」と言いきることはなんだかためらってしまう。

心のどこかで「生きる楽しみとは、もっと壮大なものでなければならない」「もっとクリエイティブ、あるいは何か成果を生み出すものでなければならない」のような思いがあるんだと思う。

つかの間の小さな幸せを感じるような活動にすら、「こうでなければならない」と決めつけているんだなぁ。

この世を去る時には何にも持って行けない。だから何を成し遂げても何を成し遂げなくても、幸せだったなと感じられたらそれでいいんだと思う。

「こうでなければならない」なんてものはなくて、どんなことを思い、どんなことをする/しない自分のことも受け入れられたらいいのかもしれない。

何かに向かってがんばれるときの自分も、がんばれないときの自分も。

今ここに存在してただ生きている、そのままの自分にOKだよと言ってあげられたらいいのかもしれない。

「このままでいいのかなぁ」「自分の人生これでいいのかなぁ」って思うときほど、「このままでいい」「これでいい」って受け入れられたらいいのかもしれない。

自分が存在している今ここを肯定して確かのものにしてこそ、変化していく土台ができるんだから。

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Lily【強迫性障害/不安/生きづらさ】
応援ありがとうございます!いただいたチップで今後さらに表現の幅を広げていきたいと思います。