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わかりみが深みでヤベェほどエモい

私、気づいちゃったかも。

自分が誰より秀でている、とは思わないけれど。
たぶん世間一般の平均よりは「言葉」というものに馴染んできたからか、使うときも受けるときも、言葉の意味を深く考えてしまう。

ここにおいて割と平易な文体で書こうとしている理由のひとつは、「難しい言葉を使ったからって中身が詰まってるとは限らねーな」と思ったから。

きっかけは何だったっけ。って思い返すと。
たぶん、森見登美彦の作品を読んだこと。
・夜は短し歩けよ乙女
・四畳半神話大系
・恋文の作法
・新釈走れメロス
・美女と竹林
あたりを読んだ。
電車の中で『恋文の作法』を読み「オパイバンザイエ」のあたりで噴き出して無事不審者デビューを飾る羽目になって以来、「森見テメェ森見ィ!」と逆恨みしてからは摂取を控えている。
京大卒の彼が繰り出す作風は(少なくとも私が読んだ作品に限れば)、「難解な語彙を弄した上で、ダメ人間のクソほど下らねー戯言を長文化する」といったものに感じられた。※褒めてます
ちょうど同時期に読んだ、同じく京大卒の万城目学の作品も相俟って、行ったこともない京都の地理を偏って記憶してしまった。先斗町とか鴨川デルタとかね。

その印象が強いな。
大事なのは、語彙ではない。
語彙があるに越したことはないが。
そんなん、多彩な調味料を揃えたのに肝心の冷蔵庫が空っぽ、みたいなものだ。

んで。
言葉に敏感になり過ぎた結果、雑な表現に対する苛立ちを憶える時期があった。
これはもう経済力を伴わないグルメオタクのようなもので、「よくマックのハンバーガーで満足できるよね、頭おかしいんじゃないの、可哀想に」みたいなめんどい思考に陥っていたのだと思う。誰得だよ。
マックのハンバーガーもサッポロ一番も、困ったことに美味しいのよ。まんまと。
塩と、熱源と、雪平鍋さえあれば。大概のものは美味くできる。
言葉だってそうじゃない?

美味しいものを食べて「おいしー!」と表現することを、表現努力の欠如だと決めつけていた。
絶景を見て「きれい…」に留まる表現しかできないのは、絶景に対して失礼だと思い込んでいた。

あー、それ、おいしーのね?
あー、それ、きれいなのね?
いいじゃねえか。十分だよ。

最近は好都合なことに、また便利な言葉も生まれてきたよ。
「エモい」と「わかりみ」よ。
ここに「ヤバい」を加えたら、もうそこには。
塩と、熱源と、雪平鍋が揃っている。

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