前日譚1_女装発展場に初めて行った話
はじめに
この物語はフィクションであり、登場する人物、場所は全て架空のものです。
作中の表現並びに人物の言動は作者の意見を代弁するものではありません。
また、作中のいかなる言動も推奨する意図はありません。
1月半ば、新年の喧騒も落ち着きを見せた頃、私は一人部屋のベッドで動けないでいた。
別に体調が悪い訳ではない。動く気になれないのだ。
冬の寒さは私にベッドから出ない理由を与えてくれる。
暖かい布団とスマートフォンは私を優しく、それでいて強固に束縛する。
何もしたくないわけではない。
むしろ何かをしたいのだ。
だが何かとは何だ。
読みかけの自己啓発書も、ただ料金を払い続けているサブスク動画配信も、数百時間費やしたはずのゲームも、どれも今の私も祝福してくれないらしい。
「あれが来たな」
何年ぶりだろうか。
私の身にはこれが定期的に起こるのだ。
私はこれを「アイデンティティの再構築」と呼んでいる。
ディズニー映画の「インサイド・ヘッド」にしっくりくるシーンがある。
頭の中にある価値観の"島"が崩れて、新しい価値観の"島"が新たに作られる。
それがまさに起きていると感じる。
自分と対話をする。
「何がしたい?何が欲しい?」
すぐには答えは出てこない。
固く閉ざした心の奥。
それをゆっくりと解きほぐしながら答えを見つけていく。
「どうなりたい?どうありたい?」
一人暮らしのアパートは薄暗く静まりかえったままだ。
居心地が良かったはずの実家は正月に帰った時には妙な居心地の悪さを覚えた。
「これから先どう生きていく?」
心が揺らいだ。
これからずっと独りなのか。
同年代は結婚して子供もいる年齢だ。
もちろん全てがそうではないし私も独りでいる。
一念発起ではじめたマッチングアプリは私の時間と"授業料"を吸い上げ現実を教えてくれた。
最後にセックスをしたのはいつだろう。
恐らく旅行先でフリーで入ったソープランドだろう。
私のような人間は風俗と自慰行為以外発散する術はないのだ。
厄介だ。
私は一人でいたいと望む一方で一人は嫌だという矛盾した感情をいだくことがあるのだ。
特にこんな寒い日は人肌恋しくなる。
握りしめたスマートフォンで今日の"おかず"を探す。
アダルト動画かエロ同人かはたまた官能小説か。
媒体は違えどその嗜好には共通点がある。
検索ワードは"女装"、"男の娘"、"ニューハーフ"など。
私の性癖は異性装や性転換に関するものだ。
私の性自認は男性で、性的指向は女性だ。
しかし、自身が女性化する想像にどうしようもなく惹かれている。
私のような人間をオートガイネフィリア、すなわち自己女性化愛好症というらしい。
なんでもかんでも分類、区別、ジャンル分けしたがる世の中だ。
私も自身をそれと認めることにした。
そういえば最近買った成人向け漫画にこんなものがあった。
女装に興味を持った少年が女装発展場に行くという内容だ。
初めは男性との交流を拒絶していた少年だが段々と快楽に堕ちていき、最後は自ら大勢の男性と関係を持つに至る。
女装発展場。
その存在は知っている。
だが、実際に行くとなると性癖が人に知られるということだし、危険な目に合うリスクもある。
内なる欲求を下着女装や自慰行為で部屋から出さずに発散していた私はそんなリスクのある行動をする訳なかった。
そう今までは。
検索サイトに地元の地名と"女装発展場"と打ち込んで検索する。
検索結果には紹介ブログや匿名掲示板などが表示された。
試しに地域特化型の匿名掲示板を覗いてみる。
驚いた。
そこには聞き慣れた公園や施設の名前が並んでいた。
昼間に行ったことがある場所も夜になると別の一面を見せるらしい。
私は家から2kmほどにある公園の名前を見つけた。
最終書込は今日の未明。
覗くだけならどうということはない。
タップするとそこには昨夜から未明にかけてのやり取りが記載されていた。
『20時から××してくれませんか?』
『もうすぐ着きます』
『まだいますか?』
『先程はありがとうございました!』
つい数時間前、ここから2kmほどで起こった出来事である。
にわかには信じられなかったが、これと同様のことが各所で起こっている。
いつしか書き込みを覗くのに夢中になっていた。
女装発展場には公園のような場所を利用するものと、最初からそれとして作られているものがある。
私は近郊の代表的な場所を調べていった。
公園は夜遅くにアポを取らないとならないケースが多いようだ。
専用の発展場はなかなか過激な場所もあり初めてにしてはハードルが高い。
そこで目を付けたのが映画館だ。
いわゆる成人向け映画館の一部でそのような発展行為が行われているらしい。
そこで男性の姿であれば、危険な目に遭う確率も低いだろう。
「覗くだけ。何かあったら帰れば良い」
時計を見る。
午後3時。食事も取らずにこの時間までベッドで過ごしていたらしい。
私は起き上がるとシャワーを浴びに向かった。
今から準備すれば夕方には現地に着くであろう。
私は無為に過ごした一日を取り返すようにアパートを後にした。
その映画館は繁華街の外れにある。
昔からあるその筋の人にはよく知られたスポットらしい。
地図アプリで場所は確認済みだが、さも他の場所を探しているかのような振りをして入口の前を通り過ぎる。
心臓が高鳴る。
20mほど通り過ぎて立ち止まり周りを見渡す。
今なら人気が無い。
私は急足で入口に駆け込んだ。
券売機前では常連と思しき熟年男性が窓口係と談笑している。
私は俯きながらチケット買って奥へと進む。
ロビーに髪の長いミニスカートの人物がいた。
ここは女性立入禁止であることは事前に調べてある。
つまりは「そういうこと」だ。
本当だ。
フィクションではなく現実に「彼女達」を目の当たりにした。
それだけで鼓動が加速していく。
重く閉ざされたシアターの扉。
その先には何が待っているのだろう。
扉に手をかける。
中から上映中であろう映画の音声が漏れる。
中に入って目を凝らす。
暗闇に目が慣れるとそこには……。
いる。
男の群れの中にパッと見ただけで4人は「女性」の様な姿の人物がいた。
私は呼吸を整えて、落ち着く場所を探す。
既に「良い場所」は取られているので、前方の席に腰掛けた。
あくまでも映画を見に来たかの様な振る舞いをする。
上映中の映画は今から「良いところ」に差し掛かる。
チュ……クチュ……チュプ
口腔から発せられていると思われる水音が聞こえる。
映画の音声ではない。真後ろから聞こえてくる。
私は音の正体を確かめるために振り向きたいと思ったが緊張のあまり身体が動かない。
真後ろで口淫が行われている。
もしくは歯のないじーさんがおにぎりでも食っているかのどちらかだ。
スクリーンでは濡場が展開されているが映画の音が現実の音か頭が混乱する。
4DXをも凌駕する本物の映像体験がそこにある。
私は結局座席から動けないまま1本目の上映が終わった。
休憩時間になり場内が明るくなる。
見渡すとやはり5人ほど女装さんがいた。
セーラー服、セクシーお姉さん、ロリータさん……
これは現実。AVでも漫画でも私の妄想でもない。
休憩時間中の場内が明るい時間は発展行為は行われない。
次はちゃんと見よう。
私は最後方の壁際に立ち次の上映時間を待った。
場内が暗くなりスクリーンには少し古いピンク映画が流れ始める。
後ろからならどの席で行為が行われているかわかりやすい。
早速動きがあった。
初老の男性がセーラー服の席に近づき何事か声をかけている。
そのまま隣に座ると「彼女」の下腹部に手を伸ばし弄り始めた。
スカートを捲り上げたそこにはもちろん……
ちらほらとその様子を立ち見しているギャラリーも現れ始めた。
私は彼等がどこまで「発展」するのか見届けたかったが、それ以上接近する度胸はなく遠巻きにその様子を眺めていた。
そうこうしているうちにギャラリーに覆われてその姿が遠くから見えなくなった。
凄い。
作り物のAVではなく本物の絡みが間近で行われている。
私は最後方の壁際に居直ると「映画を観ているふり」を続けた。
劇場のドアが開くたびチェイサー達の視線がそちらに注目する。
今度は「当たり」だ。
清楚系のメガネさん。
暗闇でマスクもしているため女性にしか見えない。
はっきり言ってどストライクだ。
席はちらほら埋まっているので彼女は壁際に立った。
その時一人の男がスッと近づいていった。
男はいきなり彼女の腰に手を回して引き寄せた。
彼女は少し驚いて抵抗する素振りを見せる。
何事か彼に伝えて両手で彼の身体を遠ざけた。
男はメガネさんから離れると場内を見回しロリータ服に標準を合わせた。
察したロリータ服は足早に逃げていった。
発展場とはいえ無理矢理ではいけないのだ。
もちろんそれが好きという嗜好の人もいる。要は相性なのだ。
その時、メガネさんが振り返り、後ろで様子を見ていた私に気付いた。
私は目を逸らし映画を観ている振りに戻った。
メガネさんはこちらに近づくと私の目の前でまた振り返り正面に向き直った。
何が起きているのだろう。
一応ここは映画館である。
そんな目の前に立たれると映画が観えない。
いや、そんな事を気にしている場合ではない。
これは要するにそういうことだ。
メガネさんの"お眼鏡"にかなったとでも言うのだろうか。
心臓の鼓動が速くなる。
どうする?
触るか?声をかけるか?
私は一歩前に進み彼女の真後ろまで来た。
手を伸ばせばすぐの距離。
軽く咳払いをする。
メガネさんも私の存在に気づいているはずだ。
だが動く気配がない。
軽く触れてみようか。
いや、まず声をかけるべきか。
緊張で意識が遠くなりかけた。
右手を差し出す。
彼女の臀部まであと数センチ。
日常であれば決して許されない行為。
もう少し。
あと1センチ。
その後声をかけて、それからは……
********************
「あんっ!そこっ!もっとぉ!」
スクリーンの女優が喘ぐ。
私は前方の席に一人で座りぼーっとそれを眺めている。
結局、触る事も声を掛けることもなかった。
喉元まで出かかった言葉は強く閉じられた声帯を開く事はなかった。
触れに行った指は良識の壁に遮られその先へ行くはなかった。
メガネさんは顔見知りを見つけたようでそちらの方に行ってしまった。
その後はチャンスに恵まれず、席を立ったり座ったり、他の人達の発展を遠巻き眺めたりしていた。
帰ろう。
結局、私はこんな奴なのだ。
人と触れ合いたいと望みながらその時が来ると自分から逃げ出してしまう。
どんなに心の底から望んだとしても「言わなかった言葉」と「やらなかった行動」は最初から存在しなかったことになる。
ここに来る事で自分の何かが変わるのではないかと考えていたが結局何も変わっていない。
いや、ここに来た事で大きな収穫があった。
「私は一人ではない」
同じような嗜好の人々が他にもたくさんいる。
情報として知っているだけではなく現実に目の当たりにすることができた。
彼女達の事を思い出す。
綺麗だったな。
暗闇でマスクもしていたのもあるが皆女性に見えた。
きっと自分はあんな風にはなれない。
綺麗にはなれないし、女性として外の世界へ行くなんてできやしない。
繁華街の雑踏を一人で歩く。
不思議なものでさっきまであのような空間にいると街ゆく女性たちも女装の人に見えてきてしまう。
特に今は流行り病のせいで皆がマスクをつけている。
マスク……もしかしたら……
メイクで最も印象が変わるのは目元のアイメイクだと聞いたことがある。
髪型はウィッグで前髪を長めにすれば良い。そ
れにマスクで鼻、口、顎まで隠せば……
何とかなるかも知れない。
いや、何をなんとかするつもりなんだ……。
「アイデンティティの再構築」が始まる。
「何がしたい?何が欲しい?」
………がしたい。
「どうなりたい?どうありたい?」
………してほしい。
「これから先どう生きていく?」
………していたい。
私はスマホを取り出すと大手の通販サイトを開いた。
ログインした名前は私の本名ではない。
この名前はもう一人の私の名前。
この名前でログインした時にどんなものを買うか決まっている。
女性用の衣類だ。
私はウィッグ、アイシャドウ、アイライナー、マスカラ、そして黒マスクをカートに入れた。
やりたい事を見つけた。
いや、見つけたのではない。
ずっとそこにあったものを今ちゃんと見たのだ。
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「○○をご利用頂きありがとうございます。ご注文を承ったことをお知らせいたします。
届け先:○○恵梨香様」
私のもう一つの名前。
エリカ。
これは彼女へのプレゼント。
彼女に実体としての姿を与えるための。
届くまで2日間。
心がざわつく。
先ほどまでの無気力で憂鬱な自分はいない。
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