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ダンスするように生きる 【アドラーの教え】

人生とは、今この瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。

そしてふと周りを見渡したときに
「こんなところまで来ていたのか」
と気付かされる。

と、アドラーは言った。

今、世の中では【いま、ここを生きる】
という禅の教えが出回っている。
私も【宮崎駿から学ぶ】という題名の記事で、
そのことに関しての事を書いた。

これまで様々な本を読んできた中で
気付いたことがある。

それは、ジャンルが違えど、著者が違えど、
結局、皆が辿り着く結論は
【いま、ここを生きる】ということ。

ではなぜ、そのことが教えとして
今、強く出回っているのか。

それは、【いま、ここ】に集中できなく
なるようなコンテンツが
常に身の回りに存在するからである。

私は彼と、「ご飯を食べるとき、外食に出掛けた時、スマホは机の上には置かないで置こう」
とお話ししたことがある。

美味しいご飯を一緒に味わいながら、
会話を楽しむ。

どこかへ出掛けた時も、携帯はあまり触らない。
写真も、一眼レフカメラとかフィルムカメラだけで、スマホはほぼ触らない。

自然に出掛けた時、珍しい生き物や植物に 
出逢っても、スマホを向けない。
二人でその瞬間をとことん、楽しむ。

山奥へ出掛けて鹿が居た時には、そーっと
近づき、目で見る。
道端に大きなカエルが居た時には
少し触ってみる。
鳴き声を耳を澄ませて聞いてみる。

そうすると、発見がある。
このカエルってこんな鳴き方なんだ、とか
触ってみるとぷにぷにしてて柔らかい、とか
近くで顔を見るととっても可愛い、とか。

スマホで調べて完結するのではなく
自分の五感で感じ、学ぶ。

お互い、その時間が苦じゃないの。
少年と少女に戻った感じ。

大人になるにつれて、この感覚って薄れていくと思うんです。
だから、意識的に五感を感じるように過ごしてみる。

そうすると、二人だけの思い出が沢山募っていく感じがする。
些細な時間が、とても幸せに感じる。

彼と東京へ旅行に行った時、何度も電車に乗った。
その時、私はほんの数秒、Instagramを見ていた。
それも、一日2回程。

その時、彼に「そんなに他人が気になる?」
と言われた。
「え?今一瞬開いただけやん!笑」と言って
すぐにスマホを閉じたけど
あぁ。彼は、常に自分が楽しめることに目を向けているんだなと尊敬した。

電車に乗ると、乗客はほぼ皆スマホを触っている。

私は少し気になって、皆のスマホを少し覗いたことがある。
画面の向こうには、ほとんどInstagram。

他の人の投稿を見たり、リール動画を見ていたり。

空港の飲食店で働いていた頃、9割が外国人のお客さんだったが、その方達もほぼほぼずっとリール動画を眺めながらご飯を食べていた。

もちろん、その瞬間を楽しんでいる人たちも沢山いたけれど。

自国じゃない国へ出掛けて、普段見ることの出来ない景色、滅多に食べることの出来ないご飯を目の前にしても、スマホを眺めている人たち。

その現状に、とても驚いた。
【いま、ここ】に生きていないんだろうな、
勿体無いなぁと、感じた。

私は、そんな時だからこそ、楽しめるんじゃないかなと思う。

目の前の人との会話を楽しんだり、目の前の景色を画面越しではなく自分の目と心で味わったり、もしスマホが使えなくてナビが使えなくても、
看板や人を頼りにお家まで帰ったり。

それで、「あー!道間違えたー!笑 こっちにこんな場所あったなんて!」とか
道を尋ねた人から、その土地の良い場所を教えてもらったり、相手の方と知り合いになったり。

昔の人たちはこんな生き方が普通で、だからこそ、【いま、ここ】を意識しなくてもそれが当たり前だった。

自分が体験した出来事をすぐにスマホに打ち込むのではなく、今、目の前の人にお話しする。
伝えたい人に伝える。
スマホと向き合うんじゃなくて、人と向き合う。

そんな時間が暖かくて、相手との関係性も深まっていく。

でも、そうは言ってもついついスマホを見てしまう。そりゃそうだ。
だって、スマホって、そういう風に作られているから。
依存させるように作られているから。

別にいいやん、スマホ見てる間楽しいんやから
って思うかもしれない。わかる。
私もついつい長時間見てしまうことはある。

でもね、自分がもし半年後死んでしまうとしたら、スマホなんか触らずに大好きな人たちと沢山お話しして笑い合って、自分が楽しいと思う時間を精一杯過ごしたい。

スマホを見てはいけないと言っているのではなくて、スマホに気を取られて今を味わっている人がとても少ないように感じるのです。

他人にどう見られるか、どう思われているかなんて全く気にしない。

もし、悪口を言われていたことを知ったとしても全く気にしない。
「羨ましいんやろうなぁ。同じこと、出来へんのやろなぁ」それだけ。

だって、死んだら誰も何も覚えていないでしょう。笑

もし覚えていたとしても、どうでもいい。
他人の悪口をずっと言い続けて苦しむのは、
その本人だから。
私には何の関係もないんです。

嫌われても良いという勇気を持つ。
心を、持つ。

そうすると、他人からの目線は
全く気にしなくなる。
結果、自分の生きたいように生きられる。

【いま、ここを生きる】ってどういうこと?
シンプルに聞こえるけれど、それが難しいって
思うかもしれない。
私も、意識をすればするほど難しいと
感じたことがある。

そんな時、アドラーの言葉が、とてもシンプルで分かりやすく私の心に響いた。

アドラーは言う。

ダンスするように生きろ】

目標は設定しない。目標なんて設定したら、達成するように努力した自分を褒めるよりも、達成できなかった自分を責めてしまうでしょう。

こんなの良くない、と。

プロのダンサーを目指してそこに向かって
名一杯頑張る、のではなくて
毎日、毎日、そのダンスを楽しむ。ということ。

ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実いていれば、それでいい。

存在しない未来は見ない。いつだって今を楽しむということ。

そうすると、いつの間にかダンスのプロになっていると言います。
プロどころか、日本一、世界一になっているかもしれない。

「過程そのものを、結果と見なすような動き」と考えてもいい。

旅だってそう。
目的地に到着することが全てではなくて、家を出た瞬間から旅が始まっている。
目的地に着く道中の景色を楽しむ、食べ物を楽しむ。
仮に目的地に辿り着けなかったとしても、失敗ではない。
その過程に意味があり、また行き方を改善して出直せば良いのです。

目的地に到着することが全てなら、その場所に車で行き、到着したら5分程滞在して、またすぐに車で家に帰る。これでいい。

でも、これって、楽しいですか?
心は、満たされるでしょうか。

結果として目的地にたどり着くかどうかは、
関係無いわけです。

いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくこと。

深刻になってはいけない。
真剣であることと、深刻になることを取り違えない。

人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。
それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。

そしてもうひとつ。
アドラーの教える人生における最大の嘘、それは
「いま、ここ」を生きないことです。

過去を見て未来を見て、人生全体に
ぼんやりとした光を当てて、
なにか見えたつもりになることです。

「あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去や
未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生に、かけがえのない刹那に、
大いなる嘘をついてこられた。
さあ、人生の嘘を振り払って、恐れることなく「いま、ここ」に強烈な
スポットライトを当てなさい。あなたにはそれができます。
過去も未来も存在しないのですから、いまの話をしましょう。
決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。」

アドラーより

刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、 
真剣に生きる。
過去も見ないし未来も見ない。
完結した刹那を、ダンスするように生きる。

誰かと競争する必要もなく、目的地もいらない。


踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。





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