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忘れがたきうどん店(7) 坂丸商店



中山道志村

2022年の秋深まる頃だった。
路線バスに乗っていたら不意に気配がした。
「今、”讃岐うどん”と書いてなかった?」

後日改めて車窓に気をつけて乗車したら、確かに「讃岐うどん」と大書した布看板を掲げている店舗を発見した。
よくぞここに出店してくれた。
嬉しくなった。

店の名は「坂丸商店」
2022年10月に、本格さぬきうどんの店として開業したという。

この地は志村。
武蔵野台地の北側(成増面)と、荒川沿いの低地の境にあたる。いわゆる「台地のキワ」で、ほぼ東西一直線に高低差20メートルほどの崖が連なっている。東側の「小豆沢(あずさわ)」という地名は、これまで通説とされてきた小豆に由来する名前ではなく、崖の崩落を意味する「アズ」が語源だと推定する人もいる。(いずれも確証は取れていない)

志村は室町時代に「志村氏」の居城が建てられていたと伝えられている。この志村氏は桓武平氏系の豊島氏一族であり「武蔵志村氏」と称されている。ちなみに先年亡くなった東村山の喜劇王を輩出した志村氏は甲斐武田氏(清和源氏系)に仕えていた家柄で「甲斐志村氏」と称され、当地には無関係である。

江戸時代に入ると志村は”五街道”のひとつ、中山道沿いの集落として栄えた。正式な宿場町ではないが、幕府が街道の架橋を許可しなかった時代、荒川を往復する「戸田の渡し」が大雨による増水などで欠航すると、旅人が臨時に宿泊していたと伝えられている。京都・伊勢方面から江戸を目指して旅した人たちは「戸田を渡り、志村の坂を上ればもうすぐお江戸」と感慨を新たにしていただろう。1861年には和宮親子(かずのみやちかこ)内親王(1846-1877)が徳川家茂将軍(1846-1866)との婚儀に臨むべく中山道を下向し、この地を通り過ぎている。

明治新政府発足後は、日本鉄道が当地よりも東側の岩槻街道沿いに鉄道路線(現在の東北本線)を建設したこともあり寂れたが、1923年の関東大震災後に工業地帯として開発され、光学・印刷・インキなど細やかな技術を必要とする分野の工場が多数進出した。中山道では崖をよじるように上る旧道(清水坂)の脇に一直線の広い新道(現在の国道17号線)が整備された。その環境下でも江戸日本橋起点3里を示す一里塚はそのまま残され、現在でも「志村一里塚」として名所となっている。中山道の一里塚はほとんど撤去されてしまい、道路の左右一対が完全な形で残されている塚はここだけという。

志村一里塚。歩道の迂回は道路拡張時に
塚を撤去したり移転させたりはしなかった証である。

もともとは独立した地方自治体「東京府北豊島郡志村」であったが、1932年東京市の拡張により北豊島郡は東京市に編入された。戦後は宅地化が進み、都心方面に通勤する人たちのベッドタウン的性格の町となった。1944年、戦時体制下で中山道上に開通した都電志村線は志村最初の鉄軌道路線であり、1955年に志村の坂を下る形で新河岸川の手前まで延伸されたが、通勤需要の急増に供給が追いつかずわずか11年で発展的解消となり、2年の工事期間を経て1968年暮れに地下鉄(現在の都営三田線)が開通した。今の人は「三田線の町」として認識しているだろう。

一応東京23区内だが、ともすれば東京扱いされない”辺境”である。湾岸のほうのタワマンなどに憧れ、せっかく東京に住むならば「都心五区」か世田谷でなければ!と考える人たちからは一顧だにされないだろう。体感的には23区で最も知名度が低い。本来分家筋にあたるはずの練馬にあらゆる面で追い抜かれている。数年前に「翔んで埼玉」という映画がヒットしたが、この頃は埼玉県よりもある面冷遇されている。悪い意味で保守的な考え方に支配されていて、昔ながらの地方都市のような空気感が漂う。目立たないということは静かで日常生活を送りやすいという利点でもあるが。

斯様な土地にさぬきうどんの専門店ができるとは想像もつかなかった。早速訪れてみた。

提灯も飾られている

あくまでも”讃岐流”

店舗はそう広くない。厨房側に4人程度、および反対の壁側に5人程度座れるカウンター席があり、テーブルはない。飲食スペースは「松下製麺所」に近い作りだろうか。最新鋭のお店なのでカウンターや椅子はピカピカの木製。「溜」を思い出す。

店主はあくまでも讃岐流のうどんを目指したいようで、伊吹島のイリコを取り寄せてだしを作っている。カウンター席の上には「伊吹いりこ」や「マルキン醤油」のダンボール箱がストックされている。

カウンター上の伊吹いりこ箱

メニューもかけ、ぶっかけ、しょうゆと香川県の定番を押さえている。なぜか「温ぶっかけ」だけがラインアップされていない。

メニューより。(価格は2023年7月時点)
かけうどんに各種サイドメニューをトッピングすることもできる。

松下製麺所をはじめ、製麺所系のお店は麺だけお客さんに渡して自分で温めてもらい、天ぷら類も好きなように取ってもらうシステムを採用するお店が多いが、ここはフルサービスで、うどんがゆで上がると店員さんが運んでくれる。

卓上には天かす、しょうが、ごま、唐辛子、だし醤油が用意されていて自由にかけられる。ネギと大根おろしは店側で盛り付ける。サービスシステムは讃岐と東京のハイブリッドとみなせられる。

しょうゆうどんの小とちくわ天を注文した。天ぷらは別のお皿に盛ってくれる。7~8分ぐらい待って到着。

しょうゆうどん小とちくわ天

かなり強いコシ。さすがは讃岐うどんを目指すお店。香川県のうどん愛好家さんは、もしかしたら少し硬すぎるような印象を持つかもしれないが(香川のうどんは本来柔らかいものとブログに書く店主もいる)、普段香川県まで出向く機会がほぼ巡ってこない東京の人が思い浮かべる「讃岐うどん」のイメージによく合致しているのだろう。いわゆる”もちもち感”というよりもむしろ噛み応えのある麺であった。

だし醤油はほどよい味わい。香川県のお店より少し醤油味が濃いめかもしれない。イリコの味には癖があるので、東京で万人向けに提供するにはこれでちょうどよいのだろう。個人的にはとても好みに合う。

ちくわ天

天ぷらはちくわが一押し、これも香川県のお店の常道。逆に東京では珍しい。香川県の「かしわ天」とは趣が異なるものの、鶏ささみ天ぷらも人気という。

麺と同時に、別のお皿に盛られたちくわ天が届いた。これがまさに揚げたて。油も新しく、品質のよさがひと口でわかる。香川県のお店でもここまで気を配れないところがあるので、東京でこのクオリティはさすがと感じた。
ごちそうさまでした。

価格は640円。香川県のお店では400~500円程度だろうが、東京でこの価格は上出来すぎるほど。
東京で讃岐うどんのお店というとほとんどの人がHうどんとかM製麺とかの大手チェーン店を思い浮かべるだろう。M製麺は香川県発祥ではないので、地元の人は複雑な思いを抱いているというが。その状況下で、あえて都心や観光地化した下町などを外した立地の個人のお店、ぜひがんばってほしい。

店内が狭いので、できれば「がもう」や「須崎食料品店」のように近所に椅子を並べて屋外で食べられたらなお結構だが、いくら辺境でも一応は都区内、それをやったらたちまち苦情が殺到するだろう。

「がもう」や「須崎食料品店」のようにはいかない

以上は2022年12月~2023年1月来店時のレポートである。香川県のお店はほとんどがランチタイム営業のみだが、坂丸商店は夜時間帯も営業している。香川県のように車社会ではないので、ビールはじめお酒類のラインアップも豊富である。私は飲まないが、好きな人はちくわ天を肴にして飲むのもまた乙なものかもしれない。

再訪

この記事を書くにあたり改めて調べてみたら、いつのまにか夜は「やきとん」「もつ焼き」がメインに変わってしまい、それ用ののれんも作られたらしい。いかにもそこらの和風飲み屋というメニューにシフトしたという。うどんも頼めば出してくれるが、夜は裏メニュー的な扱いとのこと。(約40分かかりますと案内されていた。)やはり東京でうどん一本は難しいのだろうか。夕方お腹がすいて家に食料の在庫がないときの保障にも使えると見込んでいただけに残念である。

昼時間帯に再訪した。暑い季節なのでぶっかけを注文した。ちくわ天をつけて680円。

レモンはあらかじめ盛り付けられている

ぶっかけだしは香川県のお店よりもやや濃いめの印象。東京の人の好みに合わせているのだろうか。麺にはエッジが立っていて、コシの強さは健在だった。ごちそうさまでした。
お昼時でも空いているのがやや気がかり。もっと繁盛してほしいと願いをかけたい。

テイクアウトも充実している

香川県のお店でよく行われている持ち帰りにも対応している。半端な”都会”に讃岐の風が吹いてくるようである。

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