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やっと私に追いついてくれた

吃音である。
相当な重症である。

吃音というと、同じ音を繰り返す現象がパブリックイメージになっているだろうか。
しかし、本当の吃音は「発したい音が出ない」ことである。

出ない。
出せない。
とにかく出せない。
あまりにも出ないと、後頭部の脳内から焦げ臭い匂いが立ち昇るような心地がする。昔は、何とかして音を出そうと焦るあまり、普段使わない部位の筋肉まで動かして、筋肉痛を起こすことも珍しくなかった。

ここ数十年で吃音の研究はいくらか進んだとはいえ、なぜ発生するか、幼い頃の一時的現象に留まる人と生涯ものの厄介を抱える人の差異はどこにあるかなど、わかっていないことは多い。私は電化製品内蔵モーターの初期不良のように、脳内言語中枢が生まれつき故障しているものとみなしている。機械の故障ならば部品を取り替えればよいのだが、脳の部品はあいにく交換が効かない。言語中枢は後頭部ではなく、脳の前のほうにあるらしいけれど。

今でこそ、このように客観的な文章を書いているが、連絡手段が電話だけだった若い頃、それは惨めな思いをした。電話は悪魔の発明としか思えなかった。

『カムカムエヴリバディ』では1960年代はじめ、クリーニング店の竹村和子や雉真るいがお客さんから衣類を預かる際、「あれば電話番号」と、預かり証の書き方を案内している。大阪などの大都市で電話の普及率が全世帯の半数を超えた時分だろうか。

ちょうどその舞台となっている頃に生まれた(ゆえに大阪編はとりわけ愛おしい)私が小学校に入学する頃でも、クラス名簿に電話番号が載っていない児童が数名いた。が、4年生くらいになると「電話はあって当たり前」になってしまった。その頃転校を経験した私は、吃音が一気に悪化した。生まれた頃のように、電話の普及率が半分くらいの時代がうらやましかった。「家に電話がないから」でごまかせると思ったがゆえである。

程なく「プッシュホン」が最新鋭機器として宣伝されはじめた。私も東京大手町の逓信総合博物館で見せてもらったが、押しボタン式ができるのならば、自分がかけた番号や、かかってきた相手の番号がどこかに表示されるようにならないかと思った。その機能は現在当たり前になっているが、私に言わせれば30年遅い。その間、しなくてもよい苦労を山ほどさせられた。かかなくてもよい恥を海ほどかかされた。

ゆえにインターネット技術の開発と電子メールの普及は、わが人生最大の福音である。それはそれで問題やトラブルも多いのだが、電話の恐怖に比べれば物の数ではない。

電子メールを使えるようになって、電話の存在が相対化されると、改めてその欠点が浮き彫りになった。

かける側が時間を支配して、受ける側の時間を消費させる。
電話に夢中になっていたがゆえの火事や料理失敗などの事例は、決してマンガの出来事だけではない。

以前、近所に高齢女性が引っ越してきたことがあった。お嬢さま育ちを思わせる上品なふんいきの人だった。この方が母を気に入って、ぜひ仲良くなりたいと申し込んだらしい。母のほうは人づきあいそのものが疎ましいと感じるタイプなので、あまり乗り気ではなかった。その人はしょっちゅう母に電話をかけて、話をしたがる。生活時間サイクルの差異などおかまいなしにかけてくる。母はその人に限らず、「電話がかかってきたら、出ないわけにはいかないから。」という固定観念の持ち主なので、ベルが鳴ったら何を差し置いても出る。そのたびに家事が停滞する。「出なくていいよ!」と強く言ったこともあるが、頑として聞き入れようとしない。一度、母が留守の時にその人からの電話に応対したことがあるが、不在を伝えて「明日の夕方戻って参ります。お休みなさいませ。」と柔らかく言っても、ぐだぐだと話を引き延ばしてくる。挙句、最初に「母は留守です」と伝えたことまですっかり忘れて、「いるんでしょ?代わってください。」

…さすがにブチ切れて、「これから食事をするんですよ!おなかすいているの!明日も早くから仕事なんだから!」と大声を浴びせて即切りした。その後も入浴中など、幾度かベルが鳴ったが完全無視。多分その人は慣れない土地に来て、誰かと話していないと淋しかったのだろう。認知症の入口に立っていたのだろうか。たとえそうであっても、母は嫌がっているのだから、うちを餌食にしないでほしかった。

その人は3年くらいであっけなく亡くなり、電話地獄からは解放されたが、この世代の人は「かけた相手の時間を食いつぶす」という、電話のネガティブな性質に思い至らず、無自覚の迷惑電話が癖になっていることが少なくない。私が暮らしていたアパートでは、前にその電話番号を使っていた人が目当てとみられる高齢女性の声で、ほぼ毎日留守番電話にメッセージが入っていた。
「〇〇です。××さんですよね。いるんでしょ?出てください。」
あまりにも続くので、吃音をさらすようで嫌だったが、「〇〇さん、お電話ありがとうございます。私は××ではありません。以前この番号を使われていた方と思います。ご了承ください。」と録音したら、効果てきめんだった。

電話は、聞き間違いによるミスやうっかり失言をリカバリーできない。

メールでも、書かれている文章の意図を思い込みで誤認することはよくある。まして声だけの電話ならば、聞き間違いや誤解はあって当然だろう。今思えば、家庭や企業の命運がかかるような事項に関することまで電話で処理しようなんて、皆さん恐ろしくはなかったのだろうか。

私がこれらの欠点を指摘しても、電話に慣れている周囲の人たちは誰も聞く耳を持ってくれなかった。が、数年前から「電話が苦手な若者」という記事を見かけるようになった。生まれた時からデジタル機器がある世代から見れば、電話は非効率極まりない道具で、それに固執する旧世代の価値観はおよそ理解できないのだろう。

ようやく、時代が私に追いついてくれたと思った。個人的には時既に遅しだが、社会的にはとてもよいことである。

若い頃に感じていた電話以外の不条理は

・喫煙
・体育や運動会
・いじめ
・結婚制度
・飲み会
・ひとり旅ブロック(2名以上予約申し込み前提)

など。いずれもかつて私がいくら訴えても無力だったが、ふと気がついたら道が整備されていた。先日SNSで、ある音楽プロデューサーが体育教師向けの雑誌に「頼むから、そっとしておいてください」と題する一文を寄稿したと話題になっていたが、50年前にこのような意見が出ていたら…とため息をついた。いじめ問題に真剣に対峙する、40代くらいの教育従事者の発信を見ると、50年前に来てくれませんか?と誘いたくなる。

私は、あの時代に生まれ育ったことを人生一番の幸運と思っている。その一方で私の考え方や感性は、世の中より五歩くらい先を行っていたように思えることも少なくない。

再び、吃音に戻る。
音を出せないこと自体も悔しく情けないが、周囲に吃音を取り沙汰されることのほうが、余程心身を消耗させられた。自己流で「吃音が治った」と胸を張る人が開設する矯正施設に通わされ、効果を出せないと「だらしない」「怠けている」などとなじられることが一番辛かった。その方法は、あくまでその人だからこそ有効なものであり、決して一般化できるものではない。吃音は、それほどデリケートで複雑な現象である。もともと故障しているエンジンに無理矢理オイルを注いで、「なぜ焦げ臭いんだ、けしからん」と怒っているようなものである。

音を出せない時に先回りされたり、調子取りをされたりするのも、本当に嫌だった。これをやる人は、社会的地位や立場を問わないと実感する。しまいには口を開くこと自体に疲れてしまったのだが、調子取りする人に限って、筆談やメールなどの非音声コミュニケーションの利用を嫌がるのはなぜなのか。

今の若い世代には、吃音現象の理解啓発活動に取り組む人もいる。注文に時間のかかるカフェなど、吃音者の活動がメディアで紹介されることもある。それに文句をつけるつもりは全くないのだが、私は「吃音である」ことを極力意識せず、また意識させられずに暮らしたい。それこそ、「そっとしておいてください。」

かくして、何かのイベントなどで質疑応答の時間があると、よせばいいのに手を上げて、登壇者をびっくりさせる迷惑者が出現する、のである。




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